天使の涙

「恋する惑星」はやっぱり2番目のエピソードの方が好きです。で、この映画は見るまでは多分1番目のエピソードの雰囲気ではないかと思っていたのでちょっと期待出来ないかなと正直思っていました。ところが、実際見てみるとあの映画でドキドキしたシーンが手法を変えシチュエーションを変え(時には遊び心たっぷりに)次々登場する感じで、すっかり参ってしまいました。ひょっとしたら僕の中ではもう前作を超えているかもしれません。

冒頭のエージェントの女性の登場するシーン。彼女はその華麗な容貌とはあまりに不釣り合いなゴム手袋をはめて、マスクを付け、部屋中を掃除し、果ては部屋のゴミとシーツを持ち帰り、殺し屋の残り香を嗅ぎつつ、ベットの上で身悶えまでしてしまいます。これはもうはっきりと「恋する惑星」のフェイの姿以外の何物でもありません。で、前作では彼女のかわいらしさに中和されてその変態性がうまく薄められてましたけど、はっきり言って、行為自体ストレートに表現すれば、黒いガーターベルトも艶めかしいあのエージェントのシーンになるはずです。

僕が凄いと思ったのは、彼女がいつ彼の部屋を訪れているかということです。
絶対に彼が留守でないといけないわけですから仕事中、つまり、彼が生きるか死ぬかの命のやりとりをしてる時に部屋を訪れ、ゴミとシーツを持ち帰り、ベットの上で身悶えしてるわけです。まるでそういうときにそういう行為をすることが快感を増大させているかのように。しかも仕事の依頼をするのは彼女自身。これは相当に変態性が強くて、もう本当にぞくぞくしました。
その他にも、「ミッドナイトエクスプレス」「パイナップルの缶詰」「スチュワーデス」と「恋する惑星」マニアのために監督はきちんとサービスしてくれています。

「恋する惑星」同様、この映画でも様々なイレギュラーな技法が用いられていますが、前作で多少感じられたあざとさのようなものが本作ではほとんど影を潜めていました。当たり前のことなのですが、技術自体を見せようとするのではなく、あくまで監督が表現しようとするものを体現する手段としてそういう手法が用いられているからなのでしょう。
出演者に全体の概要を教えることなくシーンごとを演じることを要求する演出法、そして、ナレーションの多用、どちらも我々の日常生活をリアルに再現するために非常に効果的な手法だと思います。我々の日常の中で口から発せられることなく次から次へ消えていく言葉のどれだけ多いことか。そして、我々の感動の大半は決まった筋書きのない予期せぬ出来事の連続によってもたらされます。監督はその事をよく知っているのでしょう。
それにしても、素人を登用したというキャスティング。管理人と居酒屋の親父には参りました。どんな日常も映画として見事に切り取ってしまう監督の真骨頂といった所でしょうか。

管理人といえば、前作ではなかった父と子のエピソードもこの映画ではきちんと描かれています。チープなビデオカメラの映像はチープだからこそリアルで感動を誘います。ステーキを焼く父親の笑顔を何度も何度も巻き戻してみる息子の姿にはちと泣けました。これもやはり技法の勝利といえるでしょう。
1996/7/18 1:35

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