十二人の怒れる男

「彼らは何に怒っていたのか?」
それがこの映画の大きなテーマです。

大きく分けると2つのタイプに別れます。一つは個人的感情を暴発させて怒る者、もうひとつは合理主義を貫徹させるためにそれを妨げるありとあらゆる矛盾に対して怒る者です。

有罪3、無罪9になった時点が、この映画の大きな山場の一つでした。この時有罪を唱えていた3人が最後に意見を翻すまでの過程にはアメリカという国の、アメリカ人達が重んじてきたのは何なのかということが実に良く凝縮されています。

まず最初に反駁されるのが10番です。彼は感情を暴発させるタイプの人で、結局最後には自身の偏見を自ら暴露し、自滅してしまいます。

「ありとあらゆる偏見と矛盾」

アメリカ人はそれらに対して徹底的に批判を加えます。
(反駁その1)

次に反駁されるのは4番です。彼は12人の中でも8番に匹敵するほどの合理主義者であり、筋金入りの切れ者です。彼には3対9(この時点では2対9で、一人除外の状態)という状況はさして問題ではありません。合理的な議論をするのに多数派、少数派の優劣はないからです。
ここでいう合理的な議論とは批判的であり続けることが前提となります。自分の意見の正当性をあれやこれやの理由をつけて主張するのではなく、むしろ、自分の意見を徹底的に批判してもらい、それでもなお自分の主張が反駁されなければ自分の意見が生き残れるのです。4番は最初から最後までこの立場を取ります。そして、9番の指摘により、自らの主張の正当性に疑問の余地が出ると自ら無罪の側に立ちます。(反駁その2)
この態度は非常に重要です。「疑わしきは罰せず。」と言う言葉がありますが、生半可ではなく、徹底的にこの言葉を実践しようとしたのが8番であり、4番であったのです。

最後に残るのが3番ですが、この人を最後に残したことこそがこの映画の最大のポイントであり、アメリカという国の文化の象徴だと言えます。(すごく嫌らしい言い方をすれば、この映画の限界とも、アメリカという国の限界とも言えます。)

彼は最初のタイプ分けでいうと明らかに「感情を暴発させるタイプの人」に属します。しかし、同情の余地のない偏見の持ち主ではありません。彼の「有罪」の主張を支えていたのは「親子の情」に他なりません。だから、10番を反駁した時とは違い、3番を見る11人の目は優しく穏やかなものです(ある種の同情や共感を含んだ。)。結局最終的には、誰に説得されるわけでもなく、これもまた同じく「親子の情」により、「無罪」の側につくことになります。
(反駁3)

アメリカという国を支えてきたのは表面上は(反駁1)や(反駁2)に象徴される合理的精神なのですが、最後の最後にはやっぱり合理性だけでは語り尽くせない「情」が残ります。これは最初から議論の材料になるべきものではない筈です。アメリカ人にも合理性だけでは割り切れない美徳のようなものがあるのでしょうか。

ただ、最初から情に流され、徹底的に合理的な議論をすることを避けてしまうどこかの国の国民性とは明らかに区別されるべきでしょう。やはり、アメリカという国の底力を思い知らされました。少年が有罪である可能性すら残っているという状況で、12人が救ったのは、一人の少年の命だけではなくてアメリカという国の「誇り」でもあったのですから。

最後に反駁3を残したことでこの映画は人間ドラマとしても超一級だという評価を得たのかもしれません。ちょっとその視点で映画を思い起こしてみて、「12人のなかで一番好きなのは誰か?」と考えてみると。

僕が1番好きなのは6番です。

彼は反駁2に積極的に参加するほどの力量はありませんが、議論の最中9番をかばってみせたり、「長幼の序」というか「義理・人情」みたいなものものをすごく大事にする人です。表面的にアメリカを支えているのは4番や8番のような人なのかもしれませんが、本当はアメリカという国のパワーの源は6番のような人達にあるのではないでしょうか。

勿論誰を一番好きと言っても、それぞれに色々と書けるくらい、一人一人が魅力的でリアルですが。(10番、11番はちょっと難しいかな?優柔不断な12番は一番自分に似てました。)
96/10/04(金) 00:54

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