「デカローグ」 1988年 ポーランド映画

第一話「ある運命に関する物語」

(あなたは私の他になにものをも神としてはならない。)

第二話「ある選択に関する物語」

(あなたはあなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。)

第三話「あるクリスマス・イヴに関する物語」

(安息日を覚えてこれを聖とせよ。)

第四話「ある父と娘に関する物語」

(あなたの父と母を敬え。)

第五話「ある殺人に関する物語」

(あなたはなにものをも殺してはならない。)

第六話「ある愛に関する物語」

(あなたは姦淫してはならない。)

第七話「ある告白に関する物語」

(あなたは盗みをしてはならない。)

第八話「ある過去に関する物語」

(あなたは隣人について、偽証してはならない。)

第九話「ある孤独に関する物語」

(あなたは他人の妻を取ってはならない。)

第十話「ある希望に関する物語」

(あなたは隣人の家をむさぼってはならない。)

【デカローグ完成まで】

「デカローグ」は当初テレビ映画として作られました。

キェシロフスキのパートナーであり、この作品の共同脚本に名を連ねているクシシュトフ・ピェシェヴィチに「十戒」をテーマにした映画を撮ってみないかというアイデアを持ちかけられたのです。その時には未だ彼の頭の中にはその作品を自分が監督するという意志はありませんでした。

当時、彼はポーランドの若い映画監督たちが新作を撮る場を提供してあげたいと考えていて、実際にそういう立場(製作プロダクションの責任者代理)にありました。ポーランドでは新人の映画監督がテレビ映画でデビューをするというのが一般的でした。また、テレビ会社は単発の映画ではなくシリーズ物を好む傾向があったことから、10個の異なるシナリオを10人の監督たちに撮らせるのには非常に好都合な企画だったのです。

そこで彼はまずピェシェヴィチと共に10本のシナリオを作る作業に取りかかります。しかし、いざシナリオが出来上がると、それに愛着が湧いてしまい、新人ではなく自分自身が全てを監督したいと思うようになったのでした。

モーゼの「十戒」をモチーフにした1時間弱の10本の映画のシリーズ。

“シリーズものとして”劇場で上映される作品としては非常にユニークなスタイルである「デカローグ」はこうして出来上がりました。

当時の東側のテレビ事情はよく分かりませんが、テレビ放映時のポーランドでの視聴率は50%以上に達したといいます。

西側では第五話、第六話をそれぞれ再編集した「殺人に関する短いフィルム」「愛に関する短いフィルム」がまず注目されました。キェシロフスキはテレビ会社の提供してくれた制作費が十分でなかったことから、今度は国(芸術・文化省)の援助を引き出すために映画祭に出品が可能な劇場公開用の二作を作ることにしたと語っています。

その後ヨーロッパの3大映画祭などで高く評価され、劇場で公開された「デカローグ」はパリで公開以来2年間のロングランを記録するなど映画監督キェシロフスキの評価を一気に高めることになりました。

【テレビ作品としてのデカローグ】

テレビ用に映画を作るということはそれだけでいくつものハンディキャップを背負うことがあると思ってしまいますが、その反面、この作品は「テレビ作品であるがゆえの」特長を持っています。

まずは一本一本が適度に短いということ。一時間弱という制約があるからこそ、そこには余計なものを削ぎ落とした濃密なドラマが凝縮されています。そして放送の枠の中ではスパッと終わる。その上、(テレビドラマでは絶対に必要な仕掛けとして)翌週には同じ時間に同じドラマが見たくなってしまうようにも配慮されています。

とは言っても出来の悪い連続ドラマのエンディングのように一本道のその先を寸断するようなやり方ではないのです。今まで見てきた映画の余韻を残しつつ、あるかどうか分からないその先の答えを次のストーリーの中に見つけたくなってしまうのです。その余韻が次の作品への導入になっていたり、別の作品の中で不意に他の作品の余韻が甦ってきたり、全てが縦横無尽に補完し合い、高めあう構成になっているのです。

分かりやすい所では複数のストーリーに跨ってチョイ役として登場する人々。

例えば第一話の父親は第三話の冒頭に疲れきった顔で登場する。第二話の夫婦は第五話のタクシー運転手に乗車拒否される。第六話の青年は第十話の兄弟に切手を売る。第八話の講義のシーンでは突然第二話の夫婦の話が挿入される・・・・等々。

これは単純に全てを“通し”で見ることの楽しさに繋がっていると共に、この世界のあり方についての一つのリアリティを提供してくれています。自分では自覚しない所で自分が誰かと関わっている。初めて出会った人のはずなのに、どこか懐かしい。そういう不思議さの答えを少しの悪戯心を持って優しく見つめているように感じられるのです。

シリーズを通して見る人には、こういうあり方を「ただの偶然」と見ることも「何かの必然」ととらえることも許されていて、そのどちらもが楽しい。

例えば第六話の青年トメクと第十話の兄弟との関わりは「純粋な愛」に傷つき、成長した(生まれ変わった)彼が即物的な欲望の代表選手である兄弟と交わるという意味で象徴的だという見方も出来ます。

また第四話「ある父と娘に関する物語」は明らかに第二話の妊娠したバイオリニスト、ドロタの「苦悩の選択」との関連を想起させますし、その後の第七話「ある告白に関する物語」の捩れた母娘の関係にも繋がっていきます。

シリーズと言いつつ、第一話から第十話への一方向の流れだけではないのがこの映画の特長なのです。

この辺りは後の作品「二人のベロニカ」のポーランドとフランスのベロニカの関係や、それぞれの登場人物が微妙に交錯している「トリコロール」にも見られ、キェシロフスキの最もキェシロフスキらしい話法であると共に、その後のあらゆる作品に影響を与えたと思われます。

それから、放送枠の制約上、全ての作品が同じ長さであるということも忘れてはいけません。10話の等しい短さ。どれか一つの「愛の形」に流されることがないからこそ見る側は全ての作品にいつでもフラットに向かうことが出来ます。だからシリーズを通して何度見ても、それから単発で見ても、見る度に自分のお気に入りが変わったり、それぞれに対する自分の感じ方が変わったりするのです。そもそもが「十戒」をテーマにしていることもあり、ともすれば教条的になりがちな作品を、全てのテーマを等しく扱うことで適度に、また平等に“突き放し”“放り出している”と言えるでしょう。

【覗く映画】

また、シリーズ物であるということからは、やや離れますが・・・

決して変な意味ではなく他人の人生を覗き見するような感覚、また自分の人生を覗き見されるような感覚がこの映画にはあります。

昔の男の家を覗く女(第三話)、父の部屋を覗く娘(第四話)、憧れの女性の部屋を覗く青年(第六話)、妻と不倫相手の情事を覗く男(第九話)とデカローグには「覗く」シーンが沢山出てきます。

第六話に象徴されるような誰かの部屋から誰かの部屋を覗き見しているようなリアリティ。

このリアリティは彼がドキュメンタリー映画出身であるということも関係しているかもしれません。

冷徹に登場人物のことを観察しているように見えて、絶対君主のように君臨しているという感じを与えないのは、ドキュメンタリーを撮っているように、カメラ越しに見えるものの中に彼ですら予想もつかなかったものが見え隠れするからではないでしょうか。

そう言えばキェシロフスキはこの映画に寄せてこんな言葉を残しています。

「誰の人生でも探求する価値があり、秘密と夢があると私は信じている。」

誰かのことをとても大切に思っていて、でも遠くから見ているだけだったり。自分がたった一人で誰からも愛されることなくひとりぼっちで生きていくのかもしれないと思っていたり。

「漠然とした孤独」や「漠然とした不安」を上手に飼い馴らすのは、決して簡単なことではありません。

自分で自分を見失いそうになったときに、誰かが自分のことを見つめてくれているということ。それを越える希望はないのではないでしょうか?だとしたらそれを越える愛し方もないのかも。僕にとって「デカローグ」とはそういう作品です。

丁度、ネットと映画が自分の中で大きい存在になり始めていた頃、コミュニケーションツール(電話、パソコン、テレビ・・・)の進歩と反比例するように人々の孤独が深くなっていく様を冷徹に、しかし優しく見つめ続けているこの作品は、僕にとって新鮮で、またとても身近にも感じられました。その10のストーリーの中に無限の広がりを持つ「デカローグ」はスクリーンを越えて登場人物の一人一人が自分の傍らにいるかのような驚きや優しさや安堵感を初めて僕に与えてくれた作品です。だから僕はこう言いたい。

「僕の人生にも探求する価値があり、秘密と夢があると僕は信じている。」

シリーズ映画として希有な作品「デカローグ」は、僕にとっては「決して終わらない映画」

なのでした。