個人の日常に(「トリコロール 赤の愛」「希望のかなた」)

責任追及、犯人探し、制度的欠陥、社会的課題・・・。最初は個人を糾弾して、そして次第に批判の対象が組織や社会に拡大していく。最後は「会社が悪い」「政治が悪い」「世の中が悪い」となる。
その過程で大半の人は責任を負わず、常に批判の対象を一方的に批判し続ける。「袋叩き」とか「リンチ」とかと言い換えてもいい。
その同じ過程の裏側で、個人が過大な責任を背負わされる。慎ましい日常を少しずつ積み重ねてきた個人が組織や社会に押しつぶされていく。
それが我慢ならない。
大きくて強いのがシステムで、小さくて弱いのが個人?
そうじゃない。本当に強いのは大切な人のために日々を積み重ねている人だ。どこまでも誠実に自分の手の届く大切な個人に向き合っている個人だ。

キェシロフスキはキャリアの前半は政治をテーマにしたドキュメンタリーを撮っていた。それが次第に変化し、政治や国家は否定され、無視され、最終的には個人の領域のみを描くようになる。無論、彼は逃げたわけではない。
遺作となった「トリコロール 赤の愛」。3つめの赤の意味は博愛。彼の描く博愛は政治や組織のそれではなく、自分にとって大切な人を一人ずつ一人ずつ増やしていくことで辿り着ける境地だ。現実から目を逸らして自分の世界に閉じこもるのではなく、どこまでも開かれた心で誰かを思い続ける強さだ。

カウリスマキの「希望のかなた」。小さい花は暴力に踏みにじられるけど、それは決して弱いわけじゃない。小さくて慎ましいけど、どこまでも強い。小さな花びらであり続けることを決して止めないでいい。
建設的な議論や、社会変革のその前に、大切な人と積み重ねる、それぞれの個人の日常に最大限の敬意を払いたい。

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