そして僕は恋をした。
彼女が誰なのかはわからない。
だけど彼女は僕を真っ直ぐに見つめ、僕に微笑み、涙を流し、
時には僕を突き放し、時には僕を優しく包んでくれた。
そして彼女は消えていった。
闇の中へ、いつまでも決して変わることのない闇の中へ・・・。
【僕と二つのクーリンチェ】
僕が初めてこの作品に出会ったのは・・・彼女に出会ったのは・・・、98年の4月でした。この映画には3時間版と4時間版の二つのバージョンがあり、日本での公開は92年の東京国際映画祭での3時間版が最初です。その後、3時間版に続いて4時間版が一般公開され、ビデオ・LDは4時間版がリリースされました。僕が見たのは劇場では久々のリバイバルになる、そしてビデオではみることの出来ない“伝説の”3時間版の方でした。
ですから、僕は3時間版を見たのはスクリーンで一度だけ、その後ビデオの4時間版を何度か見たということになります。
3時間版と4時間版にはストーリーの大きな違いはありません。ストーリーの本筋を妨げない程度にやや短めのシーンの幾つか、特に映画の前半部分で編集が施されて3時間版が出来上がっています。
順序として短めのバージョンが上映された後、長めのものが「完全版」、「ディレクターズカット版」などと称されて上映されるケースの方が一般的ですから、この作品のようなことは珍しいのではないでしょうか。今回、改めて二つのバージョンを比較してみると(3時間版のシナリオ抄録を見ながら4時間版のビデオを見るという、考えてみるとえらく不毛な作業(^^;))、それぞ
れが明確に個性をもち、楊徳昌作品の魅力がそれぞれに全く違った形で凝縮されているということが分かりました。特に、映画が伝える情報量としては明らかに制限を加えられている3時間版の表現の豊かさに驚いたのです。これならば3時間版を待望するファンがいても不思議はないと僕も思えるようになりました。
ここでは、もうひょっとしたら見ることが出来ないかもしれない3時間版の魅力を中心に書いてみることにします。
【4時間版について】
4時間版のみにある主なシーンは以下のとおりです。
・スーの家のシーン
(両親と姉二人兄一人妹一人のそれぞれの関係や個々のキャラクター描写)
・スーの家族と他の人物とのエピソード
(父親と同僚の話、姉と同い年の娘を持つ近所の商店主の話etc)
・ミンと様々な男性との交友のシーン
(バスケット部のフーや、校医の息子の青年医師などとミンとの関係を描く
シーン)
・スーの仲間の建国中学の少年たちの登場シーン
「近所の商店主の話」を除けば、3時間版でも、これらはその要素自体が全て割愛されているわけではありません。カット部分は、それぞれに人物関係や背後の条件などを、よりはっきりとさせる役割を担っています。
4時間版ではスーの家族や建国中学の仲間たちなど一人一人の個性が、かなり細かく描かれています。これは「エドワードヤンの恋愛時代」以降の緻密に構成された群像劇に通じるもので、まさに4時間版は「主人公なき群像劇」の様相を呈しています。
それから、彼が好んで使う、映画的小道具も巧みに配置されています。ラジオ、懐中電灯、テープレコーダー、ナイフなど映画のなかで重要な役割を担うアイテムの持つインパクトが計算された伏線によって増幅されます。これもまた本作以降の彼の作品に通じる所があるかもしれません。
ビデオ、LDで見ることのできる、この4時間版、作品独特の陰影を味わうのにはちと画質が辛いのですが、それでも緻密に構成された物語を何度も何度も繰り返し楽しむのにはやはりこちらのバージョンの方が良いでしょう。
こちらの方が複雑な人間関係を整理することが出来ますので、そういう意味では4時間という長さはともかく、より分かりやすく受け容れやすいバージョンだといえると思います。
【3時間版と楊徳昌】
そもそも、この作品は1961年の夏に台湾で実際に起きた、少年が少女を刺殺してしまう事件を元に描かれています。当時、その少年と同い年(14歳)だった楊徳昌に、この事件は強い衝撃を与えたそうです。彼はこの事件の真実、少女を殺した少年の真実を描こうと長く温めてきたこの企画を映画にしたのです。そういう意味では当時の彼自身の心情を色濃く反映させた作品であると言えるでしょう。
そして3時間版は他の多くの登場人物たちの物語を注意深く削ぎ落とし、楊徳昌の分身であるスーと、彼の前に現れたミンの二人に物語を凝縮させています。
これは僕自身がそうした一種の矮小化を行っているのかもしれませんが、楊徳昌という監督は自らの姿をかなりストレートに投影させた映画を作る人だと思います。そうした行為が僕のようなおっちょこちょいの目に止まっても止まらなくても、時に映画監督として命取りになるかもしれないということは十分承知の上で。でも敢えて彼は語るのです。自分の目で見た世界を、感じた世界を。
だからこそ4時間版との比較で、自分自身の物語に凝縮された3時間版の、彼自身の分身であるスーが一体、何を見て、何を考えたのかということがとても重要なのです。
【家族としての個ではなくて個の関係性としての家族】
まず、大量にカットされているスーの家のシーンについて。
どちらのバージョンでも彼らの間には親子や夫婦や兄弟といった絆をはっきりと見てとれることができるのですが、こと3時間版においては、その関係がステレオタイプとしての家族像、約束された関係としての家族像とは異なる印象を与えます。
ここでは彼らは家族の一員としてではなく、完全な個として存在しています。
スーが家族から距離をおき、懐中電灯を片手に頻繁に押入れの中に閉じこもるシーンが象徴的です。家族だからというだけの理由で得られる安心のようなものを彼らから感じることは出来ません。3時間版の彼らは家族の一員であることより、もっと孤独な個として存在しているのです。
勿論、彼らの関係が上手くいっているということがわかる箇所だけを削除したわけではないのです。恐らく、一家団欒のシーンとその逆のシーンが等しくカットされているはずです。3時間版を見ても彼らが只の仲のいい家族ではないのだなということは感じるのです。でもそれが、じゃあどんな関係なの?と考えたとき、4時間版ほどハッキリと彼らの家族としての関係が見えてこないのです。「一家団欒」にしても「一家断絶」にしても、彼らが共通の関係を共有して同じ方向に進んでいるという感じが3時間版では非常に希薄になっています。
だから、どんなに頼もしい父がいても、どんなに優しい姉がいても、3時間版の中でスーが得られる安心は無条件に約束されたものではありません。かなり自由な選択肢の中から、あくまで独立した個人として、家族は皆彼の支えとなろうとしているのです。結果としては同じでもこの差は大きいです。映画としても、映画の中のスーに与える印象も。だから彼自身も息子、弟といった役割を演じているだけで安心を得ることは出来ません。そうした役割に安住することを許されず、一種の孤独感にも似た「自分と向き合う作業」を経て無限の可能性の中から「家族」という関係性を選択しなければいけないのです。
【スーがミンの中に見たものは?】
楊徳昌が3時間版に凝縮させたスーとミンの二人の物語。
この二人の関係でも3時間版では非常に重要なシーンがカットされています。
一つはミンがスーをどう思っていたのか?もう一つはスーがミンのことをどう感じたか?に関わってきます。
一つ目は学校の傍の撮影所でスカウトされた彼女がカメラテストに臨むシーン。
彼女は初めてのテストで心細いらしく、いつもスーが撮影を覗いていた天井をしきりに気にします。しかし彼はテストの件で補導課に呼ばれ、撮影を見に来ることが出来なかったのでした。
4時間版前半のこの場面はミンがスーを頼りにし、彼に思いを寄せていたことがわかる、とても大事なシーンです。しかし3時間版ではこのシーンがカットされています。
これは観客に、この映画を、よりスーに近い(楊徳昌自信に近い)立場で見ることを要求した結果なのでしょう。スーが彼女の気持ちをはかりかねているのと同じように、僕にも彼女の本当の気持ちがどこにあるのかがいつまでも分からないのです。
もう一つはミンが今まで関係を持った様々な男性のことをスーに打ち明けるシーン。
3時間版では断片的な“状況証拠”だけで暗示させられる彼女の男性遍歴が4時間版ではきちんと彼女自身の口からスーに語られるのです。
このシーンの有無には3つの意味があります。
一つ目は彼がその事実を知っていたか知らなかったかということ。でも、これはあまり問題ではありません(恐らくは3時間版での彼も彼女のそうした事実は知っていた)。それから二つ目は、彼女がそのことを自分からスーに打ち明けたかどうかということ。前述の「撮影現場のシーン」と同じように、このシーンの存在は、彼女が彼を頼り、思いを寄せていたということを示しています。
でもこれもそれほど重要なことではありません。一番重要なのは、彼の目の前の現実が彼自身の手によって明らかにされたか、それとも急に視界が広がるように自然に現れたのかという違いです。3時間版では彼が自分の見るもの、信じるものだけを頼りに進んでいく姿が鮮明になっています。
誰かをとても大切だと思うとき、その人の事を知りたいと思う気持ちと、知らなくてもいいと思う気持ちの両方が自分の中に生まれます。
そのどちらもが「自分の目の前の人が誰であろうと自分にとってこの人が大切であるということにかわりはない。」という思いから生まれるものです。重要なのは知っているか、知らないかの違いではないのです。
涯ての見えない闇の中を懐中電灯を頼りに進むスー
彼は自分の目の前にその人がいるという真実だけを頼りに進んだのではないでしょうか?
【楊徳昌からスーへ。そしてヤンヤンへ。】
ブラスバンドの音楽の中を歩くスーとヤン、
「ずっと一緒だよ。一生友達だよ。守ってあげる。」
演奏にかき消されがちな彼の声はキチンと彼女に届いたのでしょうか。
3時間版では特にスーの彼女への思いがドンドン一方通行的に膨らんでいきます。
自分の信じたものだけを頼りに、懐中電灯を片手に進んでいくスー。彼はその光でこの世界を変える事ができると信じていたのでしょうか?
「私はこの世界と同じよ。変わるはずがない。」
ミンのこの言葉をスーが遮ります。懐中電灯をナイフに持ち替えて。崩れ落ちるように倒れるミンの傍らで立ち尽くすスー。クーリンチェはいつもと変わらぬ闇で二人を包みます。
スーと同じ視線で彼女を見つめ、闇の中を進んできた僕も、彼と同じ気持ちで呆然とスクリーンの闇を見続けました。
ペシミスティックなエピローグ。そして僕は「いつも変わらぬ不条理な現実」を前にした楊徳昌の覚悟を知るのです。
最新作「ヤンヤン 夏の思い出」にも楊徳昌の分身が登場します。彼は懐中電灯をナイフではなくカメラに持ち替えて、人々の後姿ばかりを写真に収めようとします。
「僕はみんなに見えないものを見せてあげたいんだ。」
彼もまた自分の見るものを信じて進みます。そして今度の彼は自分の照らし出す世界が自分以外の人の闇を光に変える事ができると信じているのかもしれません。たとえこの世界はいつまでも変わらないとしても・・・。
スーからヤンヤンへ。涯てのない闇の中を進みつづける楊徳昌の「変わらぬ姿勢」と、「成長」の両方を二人の分身からは感じることができます。
【おわりに】
スーを演じたチャン・チェン(張震)のその後の活躍は言うまでもありません。
ミン役のリサ・ヤン(楊静怡)にとって、この作品は唯一の映画出演になります。他の主要な少年少女たち同様、演技は素人同然だった彼女を見て、楊徳昌は
「ミン役をやれるのは、今の彼女をおいて他にはいない。」
と感じたそうです。
初めてスクリーンでこの映画を見たとき、僕の頭の中には(ちょうどパンフレットの表紙のように)真っ直ぐとこちらを見つめるリサ・ヤンの顔が鮮烈に焼きついて離れませんでした。それなのにもう一方のチャン・チェンの顔となると今ひとつ記憶に残っていませんでした。
今思うと、そのとき僕はすっかり彼になりきって、懐中電灯を片手に目の前にいる彼女を一生懸命に追いかけていたのだと思います。
もし機会があるのなら、スクリーンでもう一度彼女に会いたい思いで一杯です。
僕をドキドキさせて、そして闇の中に消えていった彼女に。
改めて、繰り返し見終えても、僕にとっての「クーリンチェ少年殺人事件」の魅力は、初めて3時間版を見たときのあの感覚と少しも変わるものではありませんでした。
01/04/04(水) 23:30