「ヤンヤン夏の想い出」の原題の「a one & a two」について、楊徳昌はこんなことを言っています。

「この映画は人生における1+2と同じくらいに、とてもシンプルである。」

映画監督が自分の作品について語るコメントを鵜呑みにしていいのかどうかは疑問ですが、僕は原題からは別のことをイメージしていました。

「ひとりぼっち」と「ふたりぼっち」とでも言えばよいでしょうか。

楊徳昌映画に出てくる登場人物は皆一様に「漠然とした孤独感」を抱えています。
それは無人島にただ一人取り残された人の孤独感とは違います。そうした物理的な孤独ではなく、”まるで自分しかそこにいないような”得体の知れない感覚に襲われるのです。学校の教室で、祭の喧騒の中で、周囲が熱狂するコンサート会場で…。その他大勢の人に溶け込めない個人を描くやり方でその孤独感を表現している作品はよく見かけられるのですが、楊徳昌の手法は違っています。

この映画の冒頭はヤンヤンの叔父アディの結婚式、大勢の人が一同に会するシチュエーションです。そこには「場に溶け込んでいる多数」と「そうでない少数」という関係は見うけられません。しいて言うなら皆が平等に場に溶け込んでいないという感じです。その不思議な感じの正体はすぐには分かりません。エンディングのお
葬式、また皆が集まるシチュエーションまで、楊徳昌は彼独自のやり方でこの孤独感を濃密に描き出していきます。
ふたりぼっち、またべつのふたりぼっち。楊徳昌の映画には2人ずつのシーンが何度も登場します。
「私の目の前にいる人は私のことを理解してくれていないし、私もこの人と気持ちを通じ合わせることが出来ない。」彼らはそういう感覚に襲われます。楊徳昌は彼らに「たったひとりで逃げ出すこと」を許しません。また主人公と呼ばれる誰か一人に孤独感を背負わせてそれ以外の人を居心地の良い場所に避難させるようなこともしないのです。
楊徳昌の映画には主人公が存在しません。脇役に甘んじることで得られる一種の気楽さのようなものも見当たりません。皆が同じように「漠然とした孤独感」と向き合わなければいけないのです。
この状況を評論家の兼子正勝さんは「映画のデモクラシー」と呼んでいました。うまい表現だと思います。ところが「ヤンヤン」では楊徳昌はその冷徹さとは明らかに違う一面を見せています。
「エドワード・ヤンの恋愛時代」「カップルズ」のラストシーンのように最後まで2人でいることを求め、あくまでそこから希望を見出そうとする姿勢に対し、本作では「ひとりぼっち」で語ることを許してあげる優しさのようなものをちらほらと見ることが出来るのです。

まずは病床の老婆へ家族達が語りかける場面。それからNJが昔の恋人の留守番電話にメッセージを残す場面。

「留守番電話で良かった。もし君が出たら思ったことを言えなかったかもしれない。」

厳密に言えば誰かを相手にしゃべっていたのだから「一人ぼっちで」はないのかもしれませんが、それでも彼らは「ふたりぼっち」のプレッシャーから開放され自分の素直な気持ちを相手に語り、また相手も自分のことを100%受け容れてくれる安心感を得ることが出来ました。「私にはおばあちゃんに語る言葉がない。」という母も一人で泣くことを許してもらえたと言ってよいでしょう。それは「漠然とした孤独感」にじわじわと侵食され、涙を流すことすらできないもどかしさとは明らかに違うものだと思います。

そしてわれらがヤンヤンの登場です。

再び皆が一堂に会したおばあちゃんのお葬式。今度は僕達にも、彼らが平等に抱えた孤独感を理解することが出来ます。
生前決して祖母の傍で語りかけることをしなかったヤンヤンは一人でたちあがり、この映画で最大の希望を天国の祖母に向かって、全ての孤独な人々に向かって、高らかに宣言するのです。
01/01/28(日) 22:28