楊徳昌の手塚治虫好きは有名で、幼い頃の彼は手塚漫画の海賊版を作者の名前も知らず読み漁っていたそうです。わけのわからない台湾名を当てられた漫画を読んでも、やはり手塚の作品は輝いていて、その作品自体は本物であるということに楊徳昌はすぐ気がついたといいます。手塚作品は彼の創作活動に大きな影響を与え、彼は自らの製作会社に「アトム・フィルムズ」の名をつけたのです。
(NJたちの会社が真っ当な商売でなく海賊版で一儲けしようとするあたりは非常に台湾的で、楊徳昌の子供の頃の経験が反映されているようですが、しかしコピーであろうと値打ちのないものはやはり受け容れられず結局浅はかな計画は失敗に終わります。)

僕はリアルタイムで「鉄腕アトム」に慣れ親しんだ世代ではありません(僕にとっての手塚作品の代表は「ブラック・ジャック」「アドルフに告ぐ」あたりでしょうか)。ですから僕にとってのアトムの印象は又聞きに近いものかもしれません。僕のアトムに関する印象はこうです。
彼は人間と友好的な関係を築くロボットの典型で、一言で言って優等生タイプ。
人間の為に危険なことにも勇敢に立ち向かいます。しかし彼はその優等生の顔の奥に苦悩を抱えています。優等生であるがゆえに人間と対等な関係を築くことが出来ない苦悩、そのことを理解してもらえない苦悩です。そんな苦悩を抱えながらそれでも彼は人間の為に結構きっつい仕事を嫌な顔ひとつせずこなしていきます。

「ヤンヤン 夏の想い出」にも楊徳昌バージョンの鉄腕アトムが登場します。
半ズボンが似合って、クリクリした眼が印象的なヤンヤン少年その人です。

あれくらいの年の少しひょろっとした男の子の特徴ですが半ズボン姿がとても可愛い。部屋で白のランニングとブリーフ姿で走り回る姿など、あの愛らしいアトムの姿そっくりでした。
女の子に苛められたらしっかり仕返しをする逞しさ、意地悪教師に決して屈しない意志の強さ・・・・。恋敵でもある意地悪教師に周到に作られた爆弾を投下するシーンは圧巻でした(^.^)。
決して優等生タイプではありませんが、たった一人で頑張る男の子としてアトムを名乗る資格が彼には十分あると思います。
自らの苦悩を他人に知られることなく頑張る彼の孤軍奮闘振りもアトムに匹敵します。
大好きな女の子の気を引くための決死の水中訓練。勇敢な彼は背の届かないプールにも臆するところがありません。が、しかし楊徳昌の映画だけにひょっとしたらあのまま溺れてしまったのではないかと心配になった人も多いのではないでしょうか。実際「恐怖分子」の頃の彼なら次のシーンはヤンヤンの遺影になっていたことでしょう。
ただ、ここで彼が命を落とさず、ビショビショに濡れながらもけろっと帰ってきたということを「楊徳昌が無闇に登場人物を死なせなくなった。彼は優しくなった。」と考えるのは必ずしも正しくありません。ここはむしろ「登場人物たちにたった一人で死なせることを許さなかったのだ。」と考えるべきでしょう。叔父アディが浴室で倒れているシーンなどもそうで、あれは場所が場所だけにまさに「恐怖分子」のラストを思い出させるのですが、これも彼を死なせることなく、生きていく苦悩をまた背負わせることにしたのだと思います。
ここらあたりには前述の「ひとりぼっち」になることを安易に許さない楊徳昌の姿勢も出ています。悲劇の主人公一人に苦悩を背負わせ、彼を苦悩から開放させることで周りの脇役たちが安心を得るようなことは彼の映画にはありえないのです。
皆が等分に背負わなければいけない苦悩。手塚版アトムでは優等生のアトムがたった一人で引き受けた苦悩をこの映画では全ての登場人物たちに背負わせているのです。
楊徳昌版アトムのヤンヤン少年もまた、断固たる決意で厳しい現実と自らの苦悩に立ち向かいます。そしてオリジナルよりも明確に「全ての人が等しく同じ苦悩を抱えている現実」を踏まえ、彼らのための希望も提示しようとするのです。意地悪先生への仕返しを果たした直後、彼は教育映画の映写会場に逃げ込みます。そして少し遅れて会場には憧れの女の子が・・・。(彼女の純白のパンチラ、というよりパンモロは鮮烈でした(^_^;)。余談ですが・・・)このシーンではスクリーンに映し出された無味乾燥な教育映画とすらっと長い首が綺麗な女の子の後姿との対照が印象的です。彼は予定調和的な映画よりも少女の後姿に引かれます。ひょっとすると彼女の正面の姿よりも後姿に引かれたのかも・・・。

「他人を最もよく感動させるのは他人に対する自らの真摯な関心である。」

手塚の作品に親しむ中で楊徳昌はそんな啓示を受けたと語っています。

ヤンヤンは父に問いかけます。

「自分以外の誰かを見つめるということはどういうことなのか?」
「自分以外の誰かを理解するということはどういうことなのか?」
「目に見えるものと見えないものの違いはどこにあるのか?」

そしてヤンヤンは大人たち、自分の周りにいる人たちを見つめます。彼らの孤独と彼らの苦悩と現実の厳しさ、残酷さを・・・。
結局昔と変わらなかったと呟く父。修行に訪れた山の中も都会での暮らしも同じだったと語る母。自分は何もしていないのに現実は自分が望むのと全く違う方向に進んでしまうと嘆く姉。
「時間と」「場所を越えた」「現実の不条理」を、彼らを見つめることでヤンヤンは自分の中に消化していきます。その上で自分を含む全ての人に対しての希望を提示するのです。

「自分では見えないものを皆に見せてあげるんだ。それはとても楽しいことだと思うよ。」

どんなときも決してユーモアを忘れないヤンヤン少年、彼のクリクリした眼の奥に秘められた決意が、眼鏡の奥で同じ目をしている監督楊徳昌の分かりやす過ぎるほどに明快な意志の表れであることは言うまでもありません。
01/01/28(日) 22:34