楊徳昌の作品の中でもこれだけバラエティ豊かなキャスティングは初めてだと思うのですが、その中でも最もユニークだったのが日本人として唯一人登場したイッセー尾形でした。
イッセー尾形といえば彼の初期のネタのひとつに「アトムおじさん」というのがあります。前述の楊徳昌映画と手塚治虫、鉄腕アトムの結びつきと彼のこのネタの関係を直接的に明らかにする作業には此処では取り組むつもりはありませんが、楊徳昌が彼のこのネタを見たことがあるかどうかは少し気になります。
もっともあのネタとの関連を探ることをしなくてもイッセー尾形演じる大田が「もうひとりのアトム」としての役割をきちんと担っていたと言ってしまってもよいと僕は思っています。
彼の芸風自体がそうですし、この映画での演技もそうなのですが、彼の言動には一種の胡散臭さのようなものが付きまとい、決して一筋縄ではいかない人物という雰囲気が終始漂っています。
ところが実際はそれを逆手にとって彼はこの映画の中でも最も誠実な人間であることに気がつかされます。それを気がつかせてくれたのはNJの誠実さ、ヤンヤンの決意と同じ他人に対しての真摯な関心でした。彼の存在がなければ大田もまた、ただの信用ならない日本人に留まったことでしょう(「日本人なんかに金を借りてはいけない!」という趣旨の台詞も映画の中には登場していました。)。
実際、楊徳昌の映画の中に出てくる外国人は今までならば「ただ台湾で一儲けすることだけを目的にこの国にやってきた人物」だったのです。
病床の老婆の為に看護婦が読み上げる新聞の記事の中にカップルズに登場した。
「マテラ社」の話題が出てきます。これはフランスの鉄道会社です。台湾ではマテラ社の開発した高架式の鉄道が走っている、と言うかあまり上手く走ってないのだそうです。
台湾人はただ漠然と地下鉄が欲しいと思った。でもいざ、実際に作るとなると自分の欲しいものが地下鉄なのか高架式の鉄道なのか分からなかったのです。
そこに現れたマテラが自らの高架式の鉄道を主張、明確な意思を持たぬ台湾の人々は彼らに言われるまま、莫大な予算を拠出したのです。ところがいざ出来た鉄道は欠陥だらけ、トラブル続きで結局、人々に受け入れてもらえませんでした。
新聞の記事は台湾がマテラに対して起こした訴訟で台湾側が敗訴したことを伝えています。台湾の人々はまたしても外国人にまんまとしてやられたのです。
「台湾の人々は自分の望んでいるものが分からない。自分がどこに進んでいいのか分からない。だから彼らは誰かに自分のなすべきことを決めて欲しがっているのだ。」
台湾で一儲けする外国人は口々に皆そう言うのです。
外国人だけではありません。台湾人の中にも同じようにして他の人々を出し抜いて一儲けを企んでいる者たちがいます。「カップルズ」のレッドフィッシュたちや「ヤンヤン」だと母が入信した怪しげな新興宗教やNJの仲間たちなどその手の人たちと言えるでしょう。
楊徳昌が描いてきたこうした種類の人々のまん真中にいるようで、実は全く対極にいた大田と言う人物。彼の存在は楊徳昌が提示した最も新しく、最もポジティブな希望に対して非常に大きな意味をもっています。
大田が居酒屋でNJにトランプで手品(?)を披露するシーン
彼は他者を出し抜いて自らが利益を得るのではなく、他者と共存することを望んでいます。手品ではなく時間で醸成される関係を望んだのです。
それから、彼はもうひとつのことを言っています。トランプの表ではなく裏にこそ真実があるのだと。このあたりは人々の後姿を写真に収め、未知なるものに関心を寄せ続けるヤンヤンの姿と見事にダブります。僕が彼もまたアトムなのだと言った理由です。
大田の存在に限定せず台湾と日本の関係で見た場合、楊徳昌のまた別のメッセージが其処には込められています。
大田を訪ねて日本へやって来たNJは昔の恋人と再会を果たし、過去を遡るように彼女と行動を共にします。それと前後してファティと心を通わせるティンティンのシーン、女の子に興味津々のヤンヤンのシーンが登場し、NJたちとシンクロするのです。
僕はこの一連の構成を非常に楊徳昌らしく、そして今までにない新しい楊徳昌だと感じました。
彼は東洋と西洋の歴史観を比較してこんなことを言っています。
「西洋では未来のことを未知のものと考えるが、東洋ではそれを過去にあったものの循環と考える。」
楊徳昌は西洋と東洋のどちらかを取捨選択するのではなく、その両方の立場を巧みに織り交ぜた映画作りをする人です。つまり、混沌とした現実は東洋の循環的な史観、言うなれば「終わらない悪夢や悲劇の連鎖」として描き、それでもその中で西洋的な未知なる未来の可能性を信じることに希望を見出そうというのです。
「ヤンヤン」のこのシーンでは旧来の循環的な史観をNJと子供たちの同一性、彼ら自身の過去と未来の同一性の中で描いています。
そして、このシーンのユニークなのはここでは同一性が時間ではなくて、日本と台湾という空間の関係でも成立しているということなのです。今まで台湾という場所にこだわり続けてきた彼が初めてそこを離れ、しかしそこを離れても決して変わらない人々の生き方、混沌とした現実を見たのがこの日本だったのです。
彼はこう言っているのではないでしょうか。
「いつでもどこでも誰でも人は皆、どこに向かってすすんでいいのか分からないんだ。」
そんな現実の中だからこそ未知なる未来に希望を見出したいと大田は語ります。
人は皆「初めて」を恐れる。でも本当の希望はそこにしかないのだと。
楊徳昌が提示する新しい希望の為に、イッセー尾形演じる大田は台湾と日本だけでなく世界中の国々の「漠然とした不安」を抱えた人々同士の橋渡しをして見せたのでした。
01/01/28(日) 22:43