これは何通目の手紙でしょうか?
誰かのことをとてもとても大好きで、大切だと思ったとき、わたしはいつもこうして手紙を書きます。「この気持ちをあなたに伝えたい。」そういう思いが手紙を書かせていることは間違いないのですが、ただそれだけでなく、自分の気持を確認したいのかもしれません。誤解を恐れずに言うのなら、わたしは誰かのことをとても大切だと思っている自分のことを大切にしたいのかもしれません。そういう気持ちが誰にでもあるものなのか、恥ずかしげもなく語れるべきものなのかは正直分かりません。でも結局突き詰めて考えると、わたしにはそういうやり方しかないようです。
あなたの作品と初めて出会ったのは、もう4年以上も前になります。当時の新作「カップルズ」を見たのが最初でした。すぐに好きになれたわけではないのです。あなたの映画は時に難解ですから。ただ、見終えた後、なんだか分からない不思議な感覚が残り、映画と自分の関わりがフィルムと同時にプッツリと切れることがなかったことを憶えています。それからは劇場で、ビデオで、あなたの作品は日本で見得る限りは全て見ました。そしてあなたの新作を他の誰よりも待望するファンになりました。
あなたの作品を通して見て、一番驚かされるのは、その卓越した構成力です。膨大な数の登場人物を物語に奉仕させることなく、かと言って無秩序に彼等を「観察」するのでもなく、一つの映画として成立させてしまう。しかも3時間前後の長尺が多いのに、あなたの映画には弛緩した時間が全く見当たりません。それは多分映画の中の一つ一つのパーツに「主」と「従」の関係が一切ないからなのでしょう。例えばパーツ=人物とするならば、主人公のために脇役が、ドラマのために登場人物が奉仕する旧来の話法に変わり、個々の人物を描くことに主眼を置く作品は、今ではもう一つの流行となりつつある感もしますが、あなたのそれは他の誰よりも洗練されています。
あなたの映画に登場するのは、その時々の台湾の雰囲気をそのまま切り取って見せることができるような等身大の人物ばかりです。群像劇のもう一つの潮流として一人一人個性の際立ったキャラクターが縦横無尽に動き合い、絡み合うといったものもあります。タランティーノやポスト・タランティーノのガイ・リッチー、それから(「マグノリア」しか見てませんが)ポール・トーマス・アンダーソンなどはそうでしょうか。意外性に富み、予想が追いつけない展開が彼等の特徴であり、パーツとしての登場人物たちはそうした力のあるストーリーに負けないように自己を主張します。
彼等と比較をするとあなたの手法の洗練をよく理解することが出来ます。あなたのそれは、個々の人物の(強烈な個性と自己主張という意味での)ユニークさを排し、人物と人物が意図せざる結果として絡み合う群像劇の面白さだけを追求したものなのです。それは彼等とはまた違う純度の高い濃密な世界であると共に、ストーリーとしての奥行きよりも映画がスクリーンを越えて観客の側に広がってくるようなベクトルを持っています。一人一人が自分のすぐ傍にいるような気がする。自分も同じ世界にいるような気がするのです。
それから都会で暮らす現代人が抱えている「孤独」を表わす「映画的小道具」の使い方も見事です。電話、エレベーター、テレビなどによって、一人一人の人間がどうしようもなく一人ぼっちで、それでも時に意識的に時には偶然に自分以外の誰かとのかかわりを求めているという状況が語られます。
「恐怖分子」では少女のかける悪戯電話が導火線となり、様々な人々の孤独が動き始め、彼方此方で炸裂します。その同じ電話が「ヤンヤン夏の想い出」では若い頃に別れた既婚の男女の「失われた孤独」をそっと繋ぎ合わせてくれたり・・・。
「エドワード・ヤンの恋愛時代」のエレベーターの使い方も見事です。そこではそれぞれの人の「孤独のかたち」が見えてきます。
いつも一人でエレベーターに乗り、まるで人間関係を構築できない孤独を象徴しているような男。エレベーターに乗ると決まって罵りあってしまう恋人同士の二人。次から次へ、まるでそんなものに全く興味がないという風にエレベーターから飛び降りていく女。そしてあのラストシーン。最初から最後まで孤独の象徴であったエレベーターが最後の最後に求め合う孤独同士を引き合わせてくれました。
でも、そうした映画的な手腕だけなら、あなたでなくてもよかったかもしれません。例えばアルトマンでも・・・。
わたしがあなたのことを好きなのはあなたが積極的に未来へと向かっていく姿勢を持っているからです。誰かと誰か、何かと何かを隔てる様々な垣根を一つずつ越えながら。
あなたは「本当の希望は未知なる未来の中にこそある。」と言ってましたよね。
あなたは作品を重ねるごとに少しずつその希望に近づいて行ってます。勿論あなたと一緒にわたしもそうありたいのですが。
不安や孤独感がヒタヒタと全ての人に伝染しそうな、しかし個々の人間が自らの孤独にやっと向かい始めた「恐怖分子」
初めて積極的に個人同士の係わり合いに希望を見出そうとする「クーリンチェ」
やっと大切な人にめぐり合えて抱擁する若い二人の「恋愛時代」
国境を越えて二人の若者が口づけを交わす「カップルズ」
生と死を超えて、全ての孤独な人に向けてメッセージを送る「ヤンヤン」
自分の孤独から自分以外の人の孤独へ、自分の大切な人の孤独へ。国境を越え、世代を越え、生と死を越えて、そしてあなたは少しずつ少しずつ「未知の未来」へと進んでいる。
「人はどうしていつも自分の半分しか見えないの?」
クリクリの目をしたヤンヤン少年の問いの答えは、父親同様わたしにも分かりませんが、でもこんな風には思うのです。だからこそ人はどうしようもなく孤独で、だからこそ「未知なる未来」へ進んでいけるのだと。
あなたの映画の中にいるのは「どうしても上手に自分を可愛がれない人」ばかりですよね。「恋愛時代」のチチだったり、「ヤンヤン」のティンティンだったり。
わたしも「自分を可愛がること」の難しさは十分知っているつもりです。自分を可愛がろうと自分に向き合えば向き合うほど、そこにはいつも「初めての自分」がいるのです。
(フランス版「YiYi」の予告編に使われていたイッセー尾形演じる大田の台詞が印象的でした。)
「Why are we afraid of “First Time”?Everyday in my life is first.
Every morning is new. We never live the same day twice.
We’re never afraid of getting up every morning. Why?」
なぜわたしたちは”初めて”を恐れるのでしょう?
「初めての自分」は矛盾だらけでわたしたちを怯えさせます。そして毎日やってくる「初めて」に目をつむり、昨日と変わらない今日を生きようとします。本当はそれを望んでいるわけではないのに。
あなたはいつも人々の「自分では見えないもう一人の自分」を優しく見つめていますね。それは孤独な人同士が繋がりあうことでしか決して見えないもの。そして「未知なる未来」はどこか遠くの知らない場所ではなく、本当は自分の中にこそあるのかもしれないという気がしてくるのです。だから・・・
わたしはあなたのことが大好きです。
あなたの映画の中の人々も大好きです。
あなたの映画を心待ちにする自分のことも大好きです。
あなたが見せてくれる「もう一人の自分のようなもの」も大好きです。
どうもありがとう。これからもあなたのことを応援しています。
2001年10月