第1話 ある運命に関する物語
「10話中最も美しく最も残酷な作品である。」
チラシの寸評にはそう書いてあったように記憶しています。
冒頭いきなり登場する防寒帽をかぶった男、彼は焚き火をしながら涙を流しています。
パヴェウはどんな気持ちよい朝にも誰かがどこかで死んでいくということを凍った犬の死体を見つめながら感じます。そして父親に尋ねます。
「死ぬって一体どういう事なの?」
生命力や希望に溢れた、一見、死とは無縁に見える子供。しかし実際は大人よりもずっと身近に死を感じる存在でもあるのです。自分がいつかは死ぬ存在であるということを自覚したとき、そのことが恐くて恐くて、いつまでも眠れなくて布団の中で震えていたことがあります、僕は。ちょうど彼位の年齢でした。
それが恐くなくなったのは、物事を理性で測り解決しようとする合理的な精神を身につけたからでしょう。そしてパヴェウの父クシシュトフはその方法を信条として生きる道を選んだ人です。
彼とは対照的な人物として叔母のイレーナがいます。彼女は人が誰かを思いやる気持ち、人生の上で支えになるであろう神の存在をパヴェウに教えます。合理精神だけでは解明できないパヴェウの母親の夢の中身も彼女にはすぐ分かります。
「お母さんはお前の夢を見てるのよ。」
父親の合理精神と叔母の神への畏敬、パヴェウはその両方を彼なりに理解し、素直に受け容れます。でもそのどちらをもってしても彼を待っていた悲劇的な運命から逃れることは出来ません。運命は論理性も感情も持ち合わせていないから。
運命を前に父親はあくまで合理的に行動しようとしますが、自らの合理性に不安があることも事実です。わざわざ夜中に家を出て池の氷を確めに行きます。でも教会の前は素通りするだけ。決して神に無事を祈るような真似はしません。これは彼がその後の悲劇的運命を知らなかったこととはあまり関係がないでしょう。彼は自らの合理性に不安を持ちながらも、あくまでそれ以外の方法を選択しなかったのです(この時点では)。
不吉な前兆と共に彼は息子を襲った悲劇を予感します。ここでも彼はあくまで合理的に対処しようとしますが、最後の最後になってやはり神を頼みます。そういうシーンははっきりとは出てきませんが、ラストで祭壇を倒す姿を見れば彼が神を頼っていたことは明らかです。
彼が失ったのは息子の命だけではありません。自らが信条としてきた合理精神、そして実は片時も忘れたことのなかった神への畏敬の念すら同時に失ってしまうのです。徹底的にどちらかだけを信じて彼が生きてきたのなら、まだ希望があるかもしれません。でも両方ともをなくしてしまった彼からは、そういうものを見つけ出すのはとても難しい。
オープニングの男同様、祭壇のマリア像が白い涙を流します。
彼が神を頼まず合理精神のみを頼りに生きようとしたのは、実は誰よりも神への畏敬の念を持っていたからではないでしょうか。彼は神を信じ崇拝するからこそ、むやみやたらに頼ろうとしなかったのかもしれません。あの時までは。
彼はその後の人生をどちらを頼りに生きていくのでしょうか。キェシロフスキはその答えを観客に預けています。
第3話で再び登場するクシシュトフ。すっかり憔悴しきっています。彼は未だに自分の支えを見つけられずにいるのでしょうか?
96/11/28(木) 15:42
1.5
第1話に寄せて
第一話の最初の方で、飛びたったハトが窓辺に止まります。パヴェウは嬉しそうにそれを見つめています。清々しい朝と無垢な少年を印象づける美しいシーンでした。
でも・・・
一般的には幸福の象徴として知られているハト(白いのだけかな?)ですが、キェシロフスキの映画では、単純にそういう使われ方はしていません。ちょっと不吉な前兆と言ってもよいでしょう。第一話でのパヴェウの悲劇的結末を見れば冒頭のハトもそういう存在としてみることが出来ます。
彼の他の映画だと「アマチュア」で、主人公の男がドキュメンタリー映画のなかで芸術的な映像ともいえる「窓に止まったハト」を撮影したことで組合(会社だったかな?)から批判を受けることになります。彼がその後たどる悲劇的な結末を予感させる物です。
また、「トリコロール白の愛」では、皆から祝福されて結婚式を終えたカロルとドミニクの二人をたくさんのハトが出迎えますが、その後の二人の破局を考えるとハトにあまり良い印象は持てません(破局の後の回想で使われている)。
しかもご丁寧に冒頭の裁判所を訪れるカロルにはハトがフンを落としていく始末。勿論ハトのフンは”白”です。
ハト自体が不吉な物として扱われているわけではないでしょう。どちらかというと本来の通り幸せの象徴のような物で、でもその幸せには羽が生えていて、ちょっとだけ目の前にいたかと思うと、いつのまにかどこかに飛んでいってしまうという所でしょうか。
「デカローグ」では第五話にもハトが登場します。
主人公ヤツェックが公園にいたとき、たくさんのハトが彼を取り囲みます。公園の主であろう老婆は彼にハトを脅かさないよう頼みます。でも、彼はそれを聞かず、わざとハトの群れに飛び込んで追い払ってしまいます。
上記の人々とは違い、彼は自らの手でハトを追い払います。彼は人間的な幸せを自ら放棄してしまったのでしょうか。
96/11/28(木) 16:29
第2話 ある選択に関する物語
アパートの最上階に住むドロタは辛い選択を強いられています。
何故辛いか?
それは彼女の選択が運命を切り開くものではなくて、為す術もなく受け容れるものだからです。夫も愛人も子供も彼女は積極的に選び取ることが出来ません。
彼女はその選択を自分以外の人に委ねようとします。彼女が老医師を訪ねた理由はそこにあるはずです。だから彼女は自分の妊娠のことは告げずに、夫の病状を聞き出そうとします。考えてみれば、夫が重い病気にかかっていなかったとしても、彼女は愛人との子を産むかどうかという辛い選択をしなければいけなくなっていたのですが、もしそうだとしても彼女は何らかの方法で決断を他人任せにしていたのではないでしょうか。
しかし、老医師は明確な答えを与えてくれません。彼女は一度は堕胎を決意しますが、その直前に老医師に引き止められることになります。結局、彼女は最後には自分の意志で何らかの選択をしたのでしょうが、どういう道を選んだのかは明らかにされていません。その答えは観客一人一人に委ねられています。
タイトルの「選択」は表面的には彼女のものなのですが、その他の人物たちも同様に何らかの選択を迫られています。無論人間は誰でも無意識のうちに無数の選択を次から次へ行なっているのですが。
老医師は、ドロタと夫のアンジェイにどういう告知をするのかという選択を迫られます。その選択に大きく関わってくるのが彼の戦争体験です。
とうとう家まで訪ねてきたドロタ、老医師は大切な家族の写真をそっと隠します。
ドロタが妊娠のことを語ろうとしなかったのは選択を他人任せにしたかったからですが、彼が自らの体験を彼女に語らなかったのは、彼女に自分自身の運命を選択させたかったからでしょう。ドロタの選択は確かに辛いものですが、それでも自分の運命を自分で選び取れる状況には置かれているのです。老医師は、為す術もなくこれ以上はないというくらいの悲劇を受け容れるしかありませんでした。それとも彼は家族の死すら自らが何らかの選択をした結果だと思っているのでしょうか。
キェシロフスキの映画では何が偶然で、何が必然なのか、その境界線は曖昧です。しかし、何れにしろ選び取った運命は容赦なく厳しいものであることがほとんどです。
彼がその体験を自分の中でどのように整理して受け容れたのかは分かりませんが、とにかく彼はそれからの人生を「自分だけの神様」を信じて生きることになります。それは自分が下した選択をどこまでも信じ続ける姿勢なのかもしれません。
夫の病状を告げる老医師にドロタは迫ります。
「誓えますか?」 「誓えます。」
彼が誓ったのは「自分だけの神様」にでしょう。
老医師は夫にも生きる勇気を与える告知をします。それが真実でなかったとしてもアンジェイは自らの意志で生きる選択をします。虫がシロップから必死で這い上がってくるように。彼は神様とか他の誰かに生かされたわけではありません。きっかけは与えてもらったかもしれませんが。
アンジェイは老医師に尋ねます
「子供を持つ意味が分かりますか?」 「分かるよ。」
老医師以上にその意味を知る人はいません。生きることを選択する以上つきまとう苦悩。晴れやかなアンジェイの顔を見つめる老医師の顔にはそれがはっきりと見てとれます。
96/12/01(日) 00:51
2.5
第2話に寄せて
キェシロフスキの映画の音楽を長い間担当していたプレイスネル。二人の関係、音楽と映画の関係は一般的なそれとは異なり、密接に絡み合い、お互いに刺激しつつ相乗的に効果を高めていくものであったようです。だからかどうかはわかりませんが、キェシロフスキの映画のなかで、音楽や音楽家の担う役所はかなり重要なものになっています。
第九話の心臓病を患っている少女、そして彼女の分身ともいえる「二人のベロニカ」でのポーランドのベロニカ、彼女たちがどういう意味を持ったキャラクターだったのかは非常に興味深い所です。監督自身も心臓病を患い、結局それがもとでこの世を去ったというのも何か因縁のようなものを感じます。
第2話で医師の役を演じていたアレクサンデル・バルディーニ。彼は「二人のベロニカ」にも登場し、その時の役柄はオーケストラの指揮者です。これも非常に面白いと思います。彼はベロニカに何らかの運命を選択させるきっかけを与えた人物です(それが悲劇的なものであったかどうかということははあまり問題でないと思います。あくまで自分の意志で選択をしたということが重要)。
そういう意味では第2話での老医師にも通じる所があるかもしれません。
思えばオーケストラの指揮者という仕事は無限にある選択肢の中からたったひとつの答えだけを団員たちに要求し、しかしそれでもなお、団員たちの自由な選択に全てを任せている(任せなくてはいけない)、そんな職業なのかもしれません。
しかし何と言っても第2話との関わりでなら、「トリコロール青の愛」でのジュリーでしょう。ドロタとジュリーには非常に共通点が多い。これは「デカローグ」のパンフレットにも触れられていました。
二人の持つ強さはどんなに辛い状況でも、運命を受け容れ、自分自身の道を自らの手で選び取り、切り開くことの出きる強さです。
第2話では、ドロタが「子供を産んだのかどうか?」「夫や愛人とはどうなったのか?」という疑問ははっきりとは明かされないままでした。でも「青の愛」のジュリーを最後まで見届ければ、何となくその答えは見えてくるような気がします。
ドロタが自らの意志で何らかの選択をし、そして、決してその結果を後悔する事なく受け容れた。これだけは間違いありません。
96/12/21(土) 00:06
第3話 あるクリスマス・イヴに関する物語
「今日はイヴだから。」
ただそれだけの理由で、自分の身近な、ささやかな奇跡を信じたくなってしまう。これはそんな夜の物語です。
自分が生きていく上で抱えている孤独、暗い夜道をたったひとりでこれからも歩き続けなければ行けないような不安。イヴは、ある人にとっては、そんなものを嫌というほど思い知らされる夜でもあります。
第1話の父親クシシュトフは疲れきった顔で、窓越しに幸せそうな家族の団欒を覗きます。また、「俺の家はどこだ!どこに行ってしまったんだ!」と喚きながら通りを歩く酔っ払いは第二話の老医師の過去を連想させます。
そしてこの物語の主人公のひとり、エヴァはその夜、自分が抱えているそんな喩えようのない孤独や不安を見せつけられることになります。施設に入っている叔母を見舞う彼女。施設では“形式的に”その日を皆で祝っています。もう誰かの孤独を受け容れ、癒してあげることも、そして自分が孤独であることと正面切って向かい合うことも出来なくなってしまった老人たちが、それでもただ“形だけは”肩を寄せ合ってその日を祝っているのです。
彼女はある決意をして昔の恋人を訪ねます。今はガラスの向こう側、カーテンの向こう側の団欒の中にいる彼を。彼女は賭けたのです。自分の孤独をほんの一時でも真剣に受け容れてくれる人がいないかと。そうすれば、これからの人生を自分のそういう孤独や不安と正面切って向かい合うことが出来るのではないかと。
奇妙な捜索の最中、ヤヌーシュはエヴァの嘘に気がつきます。そしてエヴァも彼が気がついたということを知ります。それまではあまり出来がいいとはいえない嘘で、ヤヌーシュを納得させ、方々を連れまわす彼女ですが最後には自分の気持ちを正直に告白し、彼を引き止めるのです。
「お願い、駅まで連れてってくれる?」
ヤヌーシュは表情一つ変えません。そんな彼女の叫びを知ってか知らずか彼は黙って彼女と一緒に駅まで向かいます。
時計は7時3分、賭けを終えたエヴァは真実を告白します。彼女がどれほどの覚悟で自分を頼っていたか、ヤヌーシュの表情を見る限り彼はその全てを知っていたわけではないようです。
彼が彼女の願いを聞いた理由をキェシロフスキは「責任感から」と説明しています。でも僕はそれだけだとは思いません。一年に一度だけ小さな奇跡が起きる夜、そんな夜の力が彼にそうさせたような気がするのです。
パッシングライトで会話し、別れる2台の車。ヤヌーシュの車は白、エヴァの車は赤です。
その夜、不安な気持ちを抱えていたのはエヴァだけではありません。不審な行動をとる夫の帰りを待つ妻も眠れずに過ごしたに違いありません。
「また、夜中に出かけるの?」
「いいや、ずっとここにいるよ。」
一緒に過ごせなかったその夜の二人ですが、それでも前よりもその絆は強くなったのだと僕は信じたい。ここにもちっぽけな奇跡が生まれたのだと。クリスマス・イヴはそんな夜なのだと思いたいのです。
96/12/25(水) 00:29
3.5
第3話に寄せて
第4話でのエヴァの不可解な行動の意味は彼女の最後の告白で全て明らかになります。
「賭けをしていたの。あなたと朝の7時まで一緒にいられたら、全てが上手く行くって。」
デカローグでは第六話でもマグダとトメクが初めて“デート”をするシーンで、マグダがトメクに賭けを持ち掛けます。
「もしもあのバスに乗れたら、私の家に来てもいいわ。」
通りを突然走り出す二人、バスは一度するすると動き出しますが、すぐに止まり、二人はバスに乗り込みます。(あの一度するすると動き出す所と止まる所のタイミングが実に上手い。)
自分が右に進んでいいのか、左に行けば良いのか分からないとき、コインを投げて、その表裏に自分の進路を委ねるような態度は普通ならただのコインに自分の運命を任せるということになるのでしょう。
キェシロフスキの映画では少し意味合いが違うような気がします。コインの表裏に頼らず自らの意志で自分の運命を選択したかのように見えて、自分とは全く別の力に翻弄され意図しない結果を受け容れることになってしまう人物がたくさん登場します。
「偶然」と「必然」、「意志」と「運命」。このテーマは彼の映画で繰り返し繰り返しとりあげられてきました。
人間の意志や理性の限界は映画のなかで嫌というほど見せつけられ、幸せを望む人々が辛い現実に叩きのめされることはしばしばです。
エヴァもマグダもそういう現実を生きてきた、そして生きて行くであろう女性です。そうして考えると賭けに選択を委ねた彼女たちの態度はどちらかというと自分の意志を選択し、それをどこまでも受け容れるという態度に近いようです。
コインの表裏に死という選択まで委ねたエヴァですが、涙ながらにヤヌーシュを引き止める姿には「生き長らえる」という意味以上に積極的に(無意識に)生を選択しようとする彼女の意志を感じます。そんな彼女に現実はまた酷い仕打ちをするでしょう。でもそういうちっぽけな一人の人間の「意志の選択」をみつめるキェシロフスキの眼差しは本当に優しいと感じてしまいます。
次の第4話でも一種の賭けに自分の運命を委ねようとする人物が登場します。
最後には賭けを放棄して、もっと別の究極の方法で運命を選択することになります。
97/02/03(月) 00:35
第4話 ある父と娘に関する物語
キェシロフスキ映画の愛の形の象徴と言っても過言ではない「覗く」という行為。この映画の冒頭も暗い部屋から若い女が中年の男を覗くシーンです。
タイトルを知らずに見ていたとしたら、この二人が親子であるとは思えなかったかもしれません。実際年頃の女性が父親の部屋を覗き見するという状況は想像しづらいし、じっと男を見詰める彼女の眼差しは明らかに恋人を見つめるそれでした。
風呂場で濡れたパジャマの下に透けてみえる体、そして男友達との電話の遣り取りと、娘が成熟した大人の女性であることを印象づけ、既に二人の間にただならぬ緊張感が漂います。
この緊張感にどうけりをつけるのか?そのきっかけになるのが一枚の手紙でした。
父親は娘にわざと手紙を託します。それは事実・過去を受け容れようという覚悟ではなく(現在の事実という意味での)現実を彼女に委ねようという態度に他なりません。娘は父親の意図を承知で芝居を打ちます。彼女が演劇学校で学んだのは愛する人を見つめるあの眼差しでした。
そのお芝居は男の愛を獲得する為のものであるようで実際は違います。彼女が望んだのは男と対等の立場に立ち、共に同じ現実を受け容れたいということだったはずです。父親が娘に手紙を託した時点では二人の立場は明らかに対等ではありませんでした。どちらかが上か下かということでなく「現実と向かい合う」という要素においてです。
「嘘をつくこと」「真実を明かすこと」「真実を知ること」
この3つのファクターで二人の立場は刻一刻と変化していきます。本当に短い時間でクラクラするほど目まぐるしく。
そんな遣り取りの中、現実を放棄しようとしたアンカに対してミハウは言います。
「逃げ出したり、外国に行ったり、結婚したりしても何も変わらないよ。」
恐らく手紙を読んだとしても何も変わらないでしょう。彼らが知ることが出来るのは今は亡き一人の女性が語る過去に過ぎないから。
結局二人は全く対等の立場で現実に向かい合う為の究極の選択をしたのでした。
97/02/03(月) 00:55
4.5
第4話に寄せて
デカローグをはじめとして、キェシロフスキの映画に登場する親子の中で、「親が子供に無条件に愛を注ぎ、そして子供はその愛を一身に受けて成長する。」という典型的な「幸せな親子」は多分一組もないと思います。(第1話の親子は理想的といえるが、それだけに悲劇的な結末)というより、何の悩みもなく幸せな登場人物など、ただのひとりもいないのですが・・・。
彼らは皆「親子だから」という理由だけで親や子に愛情を注ぐことをしません。積極的にそうしないというより、諸々の状況でそうできない境遇に追い込まれてしまっているという感じでしょうか。親子だからこそ深い苦悩を背負い込んでしまっているのです。彼らは子や親に注ぐ愛情を持ち合わせていないわけではありません。その表現の仕方や方向が分からないのです。
第6話に登場する老婆は血の繋がらない青年とまるで親子のような生活をしています。内気な青年に実の息子以上の愛情を注ぎますが、彼女を見ていると本当の息子との関係が必ずしも理想的なものではないということは容易に想像できます。血が繋がらないからこそ彼を愛せるのです。
第7話に登場する3世代の女性の関係は親子であるがゆえに苦悩する人物の典型でしょう。行き先を失った愛情、方向を間違った愛情が悲劇を生みます。最初から親子の愛情などなければ起こらない悲劇かもしれません。
親子としての愛情とそれとは別の愛情、第4話の二人はその方向は分かっていても、使い方、使い分けの仕方に苦悩します。モラルや社会観と言った浅い意味だけでなく「あるべき愛の形」などというものが本当に存在しているのかどうか?二人を見ていると、そしてその他のキェシロフスキ作品を見ているとそんな事を考えないではいられません。
父親を演じていたヤヌーシュ・ガイヨスは「トリコロール・白の愛」では、女房、子供がいながら自ら命を絶とうとする男ミコワイの役です。彼もまたミハウと同じ様な苦悩を背負っていたのでしょうか?
印象的なスケートシーン
再び生きることを選択し、その喜びを体中で表現するミコワイは「あるべき愛の形」から解放され、新たに自らの生や愛を発見したのでしょう。
恐らくは第四話の二人と同じ様に・・・。
97/02/03(月) 01:20