運命に翻弄されるのか、それとも運命を選択し、切り開いているのか。少し上から誰かの人生を覗き見していると、一瞬、その様子がよく分ったような気になります。でも映画が終わってみると、実はよく分からなくなってしまう。
彼等は運命に弄ばれたのか?選んだのか?
自分の事をどこかから見つめているものの存在すら感じられて、その時はもう、すっかり分からなくなるのです。映画と自分との距離感も。それから自分が運命に弄ばれているのか、選んでいるのかも。
でも、これだけは感じられます。誰も弄んだりはしない。思い通りにならない一人一人の人生をじっと見つめながら、その眼差しはやはり優しい。
時折、街や丘をゆっくりと俯瞰で捉えたショットが挿入されます。その中に厳しさを感じ、厳しさの向こうに慈愛のようなものを感じたのは僕だけでしょうか。
冒頭から、爆弾が爆発するまで。登場人物たちと運命の係わり合いに息を飲み、一瞬たりとも目を離せない緊張感は紛れもなくキェシロフスキ作品のそれでした。トム・ティクヴァという人は今現在、彼の遺稿を引き継ぐのに最も相応しい映画監督のひとりなのではないかと思います。前作の「ラン・ローラ・ラン」を見たときから、僕はそう感じていたのですが、この冒頭部分を見てそれが正しかったのだと再認識しました。
二人が天に昇り、神に迎えられるラストシーン。次第に映画は神話の性格を帯びていきますが、僕はあくまでパーソナルな愛情の話として受け容れたいと思います。
様々な制約の中で、フィリッポがフィリッパに初めて自分の気持ちを伝えた小さなカセットテープ。初めて出会って、彼女の指を握った瞬間から彼女を愛してしまった彼。たとえ何の制約もなかったとしても、きっと彼は同じ方法をとったのではないでしょうか。彼女への気持ちを語る時、彼女からの返事を待つ時、彼の気持ちは昂ぶって、そして遂には絶頂に達します。自分の中の愛する人への思いの濃度・純度を高める術を彼は知っていたのでしょう。
テーブルの下のテープを指で探す時、「同意します。」という一言を聞いた時、彼の思いは確信に変わるのでした。
そんな二人の交信を盗み聞きする者たちの存在。これはメディアを介してコミュニケーションをしようとする人たちに付き物。このあたりは映画というメディアに対してのキェシロフスキの考え方も含まれているようです。「そういうことも全て含めて映画なんだ。」という感じ。
覗き見、盗み聞きはキェシロフスキ映画の頻出シチュエーションですが、フィリッパ脱出を助けた二つのアイテム、「電話」と「ミルク缶」もキェシロフスキファンには嬉しい演出でした。
フィリッポの父が二人を訪ねてきます。「息子を愛しているのか?」と問われた時の彼女の反応は最初少し意外に感じられました。二人が出会って間もないから、彼女に対する彼の思いは一途だけどそれだけに一方通行のように感じられたから。キェシロフスキなら彼女にすんなりとそう言わせることはなかったのではないかと思ったのです。
もの静かで内向的な佇まい、それとは正反対の大胆な行動力、そして年上の異性に対しての盲目的といってもよい愛情。フィリッポを見ていると、どうしても思い出されるのが「愛に関する短いフィルム(デカローグ第六話)」のトメクです。トメクの憧れの人マグダの“最後の気持ち”はともかく、彼女の思いがハッキリと彼に伝わる事は「愛に関する短いフィルム」(デカローグでも)ではありませんでした。
やはり「ヘヴン」のフィリッポとフィリッパも決して結ばれる事のない二人。
二人が受け容れたたった一つの運命。彼らが選んだたった一つの道。
(たとえば同情とか、感謝とか、贖罪とか、そういう口実を見つけることで)自分たちの意志を曲げることを彼等はしませんでした。二人は天に昇っていきます。
二人は運命を受け容れたのでしょうか?それとも自らの意志で選択したのでしょうか?
この映画は「現代の神話」と言われるかもしれません。でも神話は決して神の手によって作られたものではないのです。
ありとあらゆる役を演じ、その度に全く違った印象を与えつづけてきたケイト・ブランシェット。“すごい女優”“只者ではない女優”だとは思っていたのですが、“大好きな女優”ではありませんでした。
運命に翻弄される弱さ、選べない苦悩。運命を受け容れる強さと運命を切り開く覚悟。そういう全てを併せ持つ強い(そして弱い)女性。見かけの美しさだけではない抜群の存在感を持つ女性。
キェシロフスキ映画を彩るそんな女性たちの系譜に堂々と連なるフィリッパを見て、僕は彼女の事が大好きになりました。
03/03/13(木) 21:53