トリコロールの3色はそれぞれ「自由」「平等」「博愛」を意味しています。監督自身もその事は意識していたようです。で、特に白の「平等」について自伝の中でこんな事を言っています。
「人は誰も平等になりたいとは思っていない。”もっと”平等になりたいと思うのだ。」
恋人に足蹴にされたカロルは「なぜ人は皆平等でないのだろう」と嘆くのでなく、何とかしてドミニクと平等になりたい、”もっと平等になりたい”と決意するのです。つまり、ここで言う平等とは国家や政治によって全ての人にもたらされるようなものではなく、あくまで個人の領域でのものであるということです。皆が平等になるのではなく、自分が誰かと、例えば愛する人と平等になりたいと思う気持ちこそが本質なのです。
自伝の中では「赤の愛」の博愛についてはあまり語られていません。ですが、ここでも「博愛」をあくまで個人的な領域のものとして考えてみるのが自然でしょう。
「赤の愛」のなかで、主人公のヴァランティーヌは盗聴をする退役判事に対して、反発し、隣人にその事を知らせようとしたり、見ず知らずの老婆に同情したりします。しかし、結局は誰一人救うことはできません。ヴァランティーヌは現実の厳しさと自分の無力さを知りますが、それでもきっぱりと退役判事に言います。
「人間はもっと寛大なものよ。」
誰も救えなかったかのように見えた彼女ですが実はある人を救っていました。彼女の無力さを目の前で見ていた退役判事その人です。彼女のひたむきさにうたれた彼は自らの罪を公表します。「赤の愛」で語られている博愛とはまさにこのヴァランティーヌの姿だったのではないでしょうか。自分がどんなに無力でも”出来るだけ多くの人に関わり””自分に関わる人々を”何とか幸せにしたいと真剣に願う姿です。これは国家や政治によって万民にもたらされる幸福(福祉とも言える)とは明らかに区別されるものです。制度によって全ての人を救おうとするやり方、このやり方は一見、博愛精神を最もよく体現しているかのように見えますが、実は様々な矛盾を孕んでいるということは歴史が証明していますし、政治や裁判などを扱ったキェシロフスキ作品にもよく取り上げられています。このやり方は個人との関わりは希薄なまま、相手の顔が見えぬまま出来るだけ多くの人を救済しようというやり方です。
出発を前に自分の身に不幸な出来事が起こりそうだと不安になるヴァランティーヌに対して退役判事は彼女の手を握り元気づけます。それまで外界との接触を断ち”誰かと関わる”事を避けてきた彼(以前は、制度によって誰かを救おうとする立場にはいた)はこの時点では「個人の領域での博愛」を彼女に注いでいます。
「赤の愛」のラストでヴァランティーヌの命を救ったのはこの退役判事の博愛であったと思います。自分の大切な人の無事を祈る「個人の領域での博愛」です。確かに出来すぎな話かもしれませんが、それでもキェシロフスキはそういう形で退役判事の博愛に応えたのではないでしょうか。
それでは、彼女以外の生存者達、トリコロール3部作の他の登場人物たちを救ったのは、誰の博愛だったのでしょうか。これは我々観客のもしくは監督の博愛精神だったと思います。観客たちがその幸せを願って止まない登場人物たち、その「個人の領域での博愛」に監督は応えたのではないでしょうか。
多くの犠牲者の存在を無視し、あのエンディングをハッピーエンドだと言ってしまうことはある意味では博愛精神の限界と言えるかもしれません。(勿論、犠牲者のことを考え、あれをどうしてもハッピーエンドとは思えないという人は、それはそれで立派な博愛精神の持ち主だと思います。)でも実際どこか自分のもっと身近なところでこういう出来事があった場合、何百人の顔の見えない誰かの安否より、たった一人の自分の大切な人の心配をするのが当たり前でしょう。
彼の語りたかった博愛とは、ただひとりでも多くの人を幸せにするということではなく、”個人との関わりの中で”一人でも多くの人を大切な存在として感じられるようになるという事だったのではないでしょうか。
キェシロフスキの眼差しはいつもそういう風に、”一人一人の人間”に向けられています。
やはりあのエンディングは僕にとっては博愛の象徴であり、紛れもなくハッピーエンドなのです。
96/10/09(水) 23:29