→『最後のジェダイ』 全てが物語に奉仕する
『最後のジェダイ』の物語が終わった時、観客は今見た映画が『エピソード5 / 帝国の逆襲』のみならず、『エピソード6 / ジェダイの帰還』までを含めてなぞり切ってしまった事に気付きます。人間関係は整理され倒すべき敵は倒され、しかし物語は未だ結末の影も見えずこの先どこに進んでいくのかすらわかりません。そういう意味で『最後のジェダイ』は、物語の第二幕、序破急の破の役割を、本当の意味で全うした事になります。序盤で示された諸々を行き着く限界まで発展させた上で、「観客の全く予想のつかない結末の直前で解放する」という意味で。
それは丁度『帝国の逆襲』を初めて観終えた時の状況とそっくりです。次回への期待だけがあり予測のしようもない、あの宙に浮いた感覚を見事に再現することに『最後のジェダイ』は成功したのでした。そこには決して単なる懐かしさだけではなく、間違いなく”新しい物語への期待”、何処に伸びているかわからない新しいレールの先を見届けたくなるあの高揚がありました。

映画の中の状況は『帝国の逆襲』の時より更に悲惨です。味方の勢力は既に100人にも満たず、討ち果たすべき悪役はより若く強力に代替わりし、頼るべき師は既に亡い。それでも闘争を続けようとする彼等を絶望的に眺める観客に、ひとつのすがるべき対象を映画は指し示して終わります。
 惑星カント=バイトの薄汚れた厩舎の一角、束の間レジスタンスとの邂逅を果たした少年の前に開かれた世界と内なる可能性。再び銀河の片隅に”新たなる希望”が芽生え、そこから新たなる物語が始まること、無数の「銀河の片隅」から無数の物語が生まれ得る事を映画は力強く宣言します。その宣言が観客とマーケティング担当重役のどちらにより向けられたものなのかは置いておくとして、お馴染みのファンファーレがこれほど力強く響いた事もかつて無かったのではないでしょうか。