→『最後のジェダイ』 ジョンソンによる”建て直し”の試み
そうした姿勢が最も顕著に表れるのが、新シリーズの主人公レイにとっては導師であり、旧シリーズにおける我らが主人公、ルーク・スカイウォーカーです。『フォースの覚醒』は、一度は手放したライトセーバーが再びルークの手に渡る場面で幕を閉じました。当然観客は次作でルークがその剣を手に活躍する姿を見られるだろうと予想した筈です。(少なくとも私はクライマックスの闘いにおいて、ジェダイ・マスターとして剣を振るうルークを予見しました。ご存知の通りその予見は相当捻くれた形で実現してしまいましたが。)

前作からそのまま続く『最後のジェダイ』該当の場面で、ルークは渡された剣を無造作に投げ捨ててしまいます。旧作からの忠実な観客はここで気付かなければなりません。ルークはかつて同じ真似をしたことがある。究極の悪を目の前にして、それを下し得る力を持ちながら、堂々と剣を投げ捨て闘わないと宣言できる男こそが我々の知るルークです。
ここにいる老いぼれた男は、銀河帝国が滅んだ後人々の口伝に昇った、そして旧シリーズの美化された記憶によってファンの中で形造られた”伝説”でも”英雄”でもなく、一人の生身の人間、エンドアの宴の中寂しげに佇んでいた青年のその後の姿なのだと、映画は冒頭ではっきりと宣言します。

ルークは老いても尚武力による解決を良しとしません。安直に剣を手にしたが故に将来ある若者の道を捻じ曲げた後とあっては尚更のこと。フォースの調和に拘泥するあまりに目の前の人々の心を見ようとしなかった彼は、だからフォースを心を見据える媒介としか見做さず直裁に切り込んでくるレイに対して言葉を失います。
銀河の平和のためにはジェダイなどいない方が良いとまで思い詰めていた彼が、レイ(となんか緑の小さいの)を通してジェダイ騎士団の本来の在り方 – 善によりそい暴虐を退ける盾としてのそれ – に改めて気付き、自身の成し得る最善を求めて再び”伝説”の衣を纏い、全精力を傾けてフォースを操ってみせる。あくまでも安直な武力に背を向けたまま。
“英雄”と呼ばれた一人の繊細な男の有終の美としては、これ以上のものはあり得ないでしょう。

『最後のジェダイ』でのルークはあくまで脇役ですが、彼の生涯をかけた探求と”落とし前のつけ方”を描き切ったからこそ、終盤の彼の闘いにカットバックされるレイの決意に説得力が現れます。ルークと対峙するカイロ=レンに対しても、彼との再開と別離は様々な疑念と圧力となって今後のしかかっていくでしょう。ジョンソン監督は斯様にして、それぞれのキャラクターの成長と変容が、他のキャラクターの成長と変容に呼応して縒り合わされ、ひとつの大きな流れに至るという、精緻な物語を織り上げてくれました。
→『最後のジェダイ』 全てが物語に奉仕する