映画との出会いは一期一会で、基本的に一回しか観ないというのが僕のこれまでのスタンスで、若い時分に携わっていた自主上映活動や地元新聞等から依頼された作品紹介稿を綴るためにスクリーン上映前にビデオ等で観るという場合を除いて、自分の家で映画を観るということもほとんどしないスクリーン鑑賞派だった。

 それらは、拙著(『高知の自主上映から』[発行:映画新聞、発売:フィルムアート社])にも記したように、ひとえに~映画と話す回路を求めて~集中して画面に対峙したいからだったわけだが、それに加えて、映画は、時代を映し出す旬のものなのだから、それを味わううえでは鮮度が一番で、料理同様に多少の腕の良し悪し、出来の良し悪しよりも、リバイバル上映も含めて、いま劇場で掛かっているものを観るのが、食通ならぬ映画通の真っ当な在り方だと思ってきたようなところがある。クラシカルな名作を自室でビデオで追うのは学究の徒に任せ、ひたすら好事家として新作の“手垢にまみれていないナマな味わい”を愉しむことを旨としてきた。

 そして、一人きりで観るのではなく、これまた偶々席を同じくした幾人かの人々との一期一会も併せて、観客の反応のみを薬味として加えることを怠らずに食することこそが、あるべき作法だとも思ってきた。だから、評論家やコメンテーターといった人々の言説を前もって仕入れるのは、食の醍醐味を大いに損なう野暮なことで、前宣伝とか風評とかはなるだけ遠ざけてきた。

 ところが、還暦を過ぎ、映画生活も長きに渡ってきたなかで、むかし一度観たっきりの印象深い作品と幾ばくかの歳月を経て再会する機会をコンスタントに得るようになった。それも特段の時代的要請のもとにリバイバルされるのではなく、全く恣意的な形で選ばれる作品を初見の人や繰り返し観てきた人らと一緒に少人数で観る機会だ。

 高校時分の同窓生の配偶者である牧師さんが教会の一室を使ってプロジェクター上映するのだが、再見日誌を綴ったものだけでも『祭りの準備』『家族の肖像』『モーターサイクル・ダイアリーズ』『光の雨』『飢餓海峡』『ガープの世界』『コキーユ 貝殻』『スピード』『カッコーの巣の上で』『オアシス』『チャップリンの独裁者』『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』『ラスト、コーション[色/戒]』『太陽の子 てだのふあ』『青春の蹉跌』『シンドラーのリスト』とある。

 初見時には思い及ばなかった触発の得られる作品、印象が減退する作品、初見時以上に楽しめる作品、時を隔てて再見することで自身の来し方に思いを馳せさせられる作品など、種々あるのだけれども、いずれにしても若い時分に一度観ていればこその比較や発見だとの感慨が湧く。ライブ公演と違って、画面で繰り広げられているパフォーマンス自体には基本的に変わるものが何一つないだけに、感じる違いは専ら自身の側から生じるものであることが約束されている点が、僕にとってはとても重要だ。他の手立てではなかなか得がたい味わいがあるように感じる。

 また、集うメンバーが特に映画鑑賞に思い入れのある面々というわけでもないうえに、それぞれ異なるフィールドで年季を積んできている年嵩にある人々だから、話題に広がりがあって、実に愉しい。いまになって改めて映画鑑賞の新たな効用を教えてもらったような気がしている。