今日は死ぬのにもってこいの日だ(「容疑者Xの献身」)
「今日は死ぬのにもってこいの日だ」という詩がある。ネイティブアメリカンの言葉にインスパイアされて作られた詩だ。
この詩のイメージに合う映画は?と考えて、思い浮かんだのが「容疑者Xの献身」。
人生に絶望し自ら命を絶とうとした男を偶然隣室に越してきた母娘が訪ねてくる。明るい母娘の声に引き戻された男の生活は、人生は、彼女たちによって一変する。
あらゆる人やモノとの関りを断ち、独りで死のうと決めていた男の耳に二人のいきいきとした声が聞こえてくる。人が生きている声、生活する音、潤い、風景、季節の移り変わり、日常、成長・・・
人がたった一人で何も持たず死んでいくのだとしたら、意味さえも持たないのだとしたら、それに「もってこいの日」など存在しない。
「死ぬのにもってこいの日」とは、つまり「生きるのにもってこいの日」であり、それは「誰かのために生きて、そしてたった独りで死んでいくのにもってこいの日」ということだ。
そして彼はまさにそれを実行しようとする。大いなる献身をもって。
彼を呼び戻したあの母娘の声によって、あの日は彼にとって「死ぬのにもってこいの日」「生きるのにもってこいの日」に鮮やかに変わったのだと僕は思う。
とてもいい映画だった。
スーダラさん、こんにちは。
すっかり遅くなりましたが、先の拙サイトの更新でこちらの頁を拙日誌からの直リンクに拝借しているので、報告とお礼に参上しました。生と死の分かれ目、端境というのは、実はそんなに対照的でも劇的でもないのかもしれませんね。その後の展開は、めっぽう対照的で劇的な違いが起こりますが…。
どうもありがとうございました。
ヤマさん、ありがとうございます。
>生と死の分かれ目、端境というのは、実はそんなに対照的でも劇的でもないのかもしれませんね。
本当にその通りですね。
人が生きる力を得たり、人生に絶望したりするのは、本当に些細なことの積み重ねであったり、積み重ねですら無く、一つのことだったりするような気がします。ささやかな自身の経験と照らし合わせても。
こうして自分の考えをまた反芻する機会を与えてもらえてとても嬉しいです。
引き続きよろしくお願いします。
同じ堤真一の「クライマーズハイ」も思い出します。
事故現場で記者が見つけたスペードのエース。
「何でスペードだったんだろうなぁ?」と呟く記者。
人生の分かれ目、生と死の分かれ目とは、ふとめくった一枚のカードのようなものなのかもしれないなぁと、折りにふれて思い出すシーンです。