太陽の少年

今年見た予告編の中で、一番楽しみにしていた作品。そしてその期待は全く裏切られませんでした。

中国の歴史に疎い僕は70年代半ばを舞台にしたこの物語を「文革とは全く関係のない青春映画」として見ようと決めていたのでした。しかし・・・

冒頭いきなり登場する毛沢東像。

“偶像としての太陽”とは無縁の「本当の太陽の少年」を予想していたのですが、実際は少年とあの時代の空気、文革の空気を切り離して考える事はできません。この映画はその二つの太陽、それぞれの「太陽の少年」を眩しく美しい映像で描いているのです。

あの夏の日、少年の年上の女性への憧れは革命の理想に燃えた大人たちの雰囲気に似ています。遠眼鏡で写真を見るような理想であったとしても、「自分が何を求めているのか」という問いは“自分にとっては”どこまでも明確で、また彼等はその欲望に非常に正直です。そして、その憧れの純粋さゆえに、当然の結末としての残酷さも孕んでいるのです。

甘酸っぱいというより、苦い結末。青春の思い出を回想するという形式で語られる物語はシャオチュンの誕生パーティーあたりからその様相を変えていきます。記憶が定かでないと言いつつ、「ちゃんと思い出した。」と断って語られる話は痛みを伴うものばかりです。どしゃ降りの中、ミーランを訪ねるシャオチュン。転んで泥塗れになった思い出を

「彼女に会えたかどうか定かでない。はっきりと傷は残っているのに。」

と語ります。

彼は確かに傷を負ったのです。本当に存在したかどうか分からない理想の為に。
力ずくでミーランを自分のものにしようとした時の苦い思い出。そして青春に別れを告げる印象的なプールのシーン。かっての仲間たちに手を差し伸べてもらえず、足蹴にされます。
この後半のエピソードは細かい状況設定を省き曖昧な記憶をたどる形式にする事で、文革の混沌とした雰囲気、今になってそれを思い出す事の難しさを上手く表現しています。「覇王別姫」で描かれていたような「文革の現実」、「理想を求めれば求めるほど自らが傷つき、さらには仲間同士が傷つけあう悲劇」を再び見ました。

思えばミーランというヒロイン像自体、どこか浮世離れしたものになっています。年齢も明かさず、素性もよくわからない、どこかミステリアスな表情とアンバランスな豊満な肉体。実態が定かでないのに(と言うより、実態が定かでないからこそ)強烈な存在感を持っています。そして、赤。

彼女こそ文革の理想の象徴ではないでしょうか。

ミーランからもらった「赤い水着」を身につけたシャオチュンを友人たちは蹴り落とします。青春の憧れと、そして文革の理想は挫折したのです。その傷は、若者なら誰もが経験する「ひと夏の苦い経験」と言うだけでなく、清算しきれない痛みを後に引きずるものだったのかもしれません。
モノクロの現代のシーン。リムジンの中で再会を喜び、くつろぐ仲間たち。精神を患った友人を見るまでもなく、彼等が背負った時代の傷を見てとることが出来ます。

この物語は「文革に名を借りた純粋な青春映画」なのか、その逆なのか。いずれにしても、どこまでも美しく、現実離れしているといっても良いほど美しい映像によって物語を描いている事で、寧ろ僕は「真摯に過去・現実に向かい合おうとする覚悟」を感じました。
文革を、何か目に見えない一部の権力者の妄想により作られた現象として捉えるのではなく、人間本来の欲望がそのまま反映されたものとして描いていると感じられたからです。オブラートに包んで現実をソフトに伝えようとするのではなく、彼なりのやり方であの時代の現実を描こうとする姿勢を感じました。

あの頃、人々は、欲望を隠す事の出来ない真夏の太陽の下にいたのです。見えない遠い理想に向かう時の人間は、少年のように美しく、純粋で、そして未熟なのかもしれません。
97/05/07(水) 00:40

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