黒猫・白猫
「狂気の沙汰だ!」
舟に無理矢理乗せられた戸籍官が言います。
どこまでも自由に歌い踊る人々。
敵も味方も肉親も他人も奇麗なものも汚いものも生きてるものも死んでるものも全てを巻き込んで歌と踊りは続きます。人々は生き生きとして体中からエネルギーを発散させ、まるで映画から飛び出してしまいそうなくらいに。映画から飛び出してしまいそうなくらいに。
双眼鏡から見ることしかできない、若くてエネルギッシュな二人の結婚式は、映画の枠を飛び出してしまいそうなほどの「狂気の沙汰」にこそ本当の映画があるのだということを語っていました。
「それがどんなに狂気の沙汰だとしてもファインダー越しに映し続けるしかない。そこにしか映画はないのだから」
そんな途方もない喜びと悲しみ。
エミール・クストリッツァという人の映画への愛情が何よりも嬉しかったです。
同じロマの民を主人公にした「ガッジョ・ディーロ」も僕にとっては忘れられない作品ですが、やはりこの映画でも彼らのしたたかさ、逞しさには圧倒されました。
彼らは自らの自由に関しては決して妥協ということをしない人達です。それはうまくいかないこともある。でも自分からゴールや妥協点を決めるようなことはしない、と言うか出来ない、する気もない。
いくらかの不自由と引き換えにいくらかの自由を手に入れることは決してしないのです。
どんなに抑圧されても、妥協点を見つけるなんてことは彼らの頭の中にはこれっぽっちもないのです。
「制限を強いられ抑圧された人々の自由にこそ本当の自由がある。」
この逆説的な言い回しはそっくり映画にも当てはまります。
映画の「無限の自由」は映画という「無限の不自由」のなかでこそ生まれるものなのでしょう。
99/10/24(日) 21:25