ウィンターゲスト
凍てつく氷の世界。生き物が皆息を潜めている静寂のなかでは、そこに生きている者の生の鼓動が聞こえてくるようです。きちんと耳を澄ませば。
「生きる」ということをこれほどまでにありとあらゆる角度から描いている作品はなかなかないのではないでしょうか。「生きる」という行為が必然的に死に繋がっているということも含めて。
人生の様々な局面にいる登場人物達。僕は遠眼鏡で人々を観察するように老境に差し掛かったエルスペスが達観した目で人々の生を見つめているように最初は感じていたのでした。
しかし、この映画で描かれていた死生観は、「全ての生きている人々は皆同じように生に執着し、死に憑かれ、死に憧れ、死を恐れて、死に立ち向かいながら生きているのだ。」というものでした。
生の終着点としてでなく、常に生の裏側に位置している死。独りで歩かなくてはいけない凍り付いた道だと分かっていても、それでもそっと手を差し伸べ合える連れが側にいて欲しいと思わずにはいられませんでした。
「手につかまって。絶対に倒れないと私が保証するわ。信じて。倒れないわ。」
何かを欲しながら、何かを恐れながら・・・・・、凍てつく冬のほんのわずかの晴れ間のような一日、そんなたった一日でも、自分の道連れとしてこの世に存在している大切な人と見たい映画でした。
98/06/16(火) 23:35
26日までの上映ということで、本日もう一度見に行きました。
オリジナルが戯曲だということもあり、非常に練られ、良く出来た脚本だと改めて感じさせられました。
世代や関係の違う2人ずつのシーンでほとんどが構成されているのですが、まず舞台の限定の仕方が非常に上手いです。フランシスの家、灯台、浜辺、それからバス通り、サンドイッチ屋などに二人ずつが絶妙のタイミングで現れます。
それから、バスを待つ老女が新聞の死亡記事を見ながら「最後にあった時、あの人はケーキを食べていたわ。」と語るのですが、映画の後半では今度は二人がケーキを食べていたりして・・・。
他の方の感想にはあまり出てこなかった若い二人、特にニータ役のアーリーン・コックバーンは僕の中には鮮烈な印象を残しました。
若い頃のイザベル・アジャーニをポッチャリさせたような彼女(と言ったら誰か怒るだろうか?)このポッチャリはフランシスの若い頃を語るエルスペスの台詞と繋がっているのでしょう。
冒頭の雪道を走るシーンから、既に彼女は「若い生命」の代表選手としての役割を担うのですが、彼女のその若い生命は死に対しても真っ向から戦いを挑みます。それは「死を恐れる」ということを越えていました。
凍りついた海の上を歩こうと彼女は言います。
「今日が人生最後の日かもしれないのよ!」
しかし、だからこそ彼女は死を恐れず真っ向から立ち向かえるのです。彼女にとって「死と戦う」ということは死を恐れて、誰かと抱き合ったり、愛情を確かめ合ったりするようなことではありません。
彼女はアレックスから写真を取り上げて、捨ててしまおうとします。飛び散るガラスの破片に傷つき彼女は血を流します。その赤い血からさえも、彼女の、死に戦いを挑む若い生命を感じないではいられません。このあたりは灯台で転んで膝から血を流したエルスペスとの対比なのでしょう。
ニータには「今日が人生最後の日かもしれない。」という潔さと「私の若さは永遠のものだ。」というたくましさを同時に感じることが出来ます。相反するこの二つの感情を体中に漲らせることが出来るのが若さということなのでしょう。
そっけない態度でアレックスと別れる彼女、ふと振り返る彼女の表情には若さゆえの潔さ、逞しさがあらわれていました。
98/06/24(水) 22:51