ある貴婦人の肖像

「責任をとる誇りが人間にとって一番大事だ。」

オズモンドがイザベルにキッパリと言ったこの言葉、僕にとっては映画の中で最も重い意味を持った言葉でした。

この言葉を通じて、イザベルがマダム・マールがパンジーが、そして同時代を生きた女性が(そして恐らくは「ピアノレッスン」のエイダが)ある時は闘い、ある時は従ってきた「伝統と格式」の重みを感じさせられました。

例えば「伝統や格式」が、ただ保守的にそれを守ろうとするものの手によって受け継がれていたのだとしたらそれは意外に脆いものだったかもしれません。しかし、この物語の中では「伝統や格式」にとらわれず、自らの自由な生き方を選択しようとした女性までもが、結果として旧来の「伝統や格式」を引き継ぐ結果になっています。これは並大抵のことではありません。「伝統や格式」が人間の本質的、根源的な欲求に根差したものだということになってしまうのですから。

イザベルは自分が自分の望む自由を選んだと信じたいからこそ、親の望む縁談をパンジーに積極的に進めることが出来ません。それが自分の選択した自由と矛盾する結果を招くと知っていても・・・。

矛盾はそれ以前にあります。「伝統や格式」にとらわれず、一人の人間として自由に生きたいと願った彼女は実は「伝統や格式」に守られ、その枠の中で生きていたという矛盾です。彼女が最後に悟った真実の愛にしても「財産を譲る」という最も「伝統や格式」に直結した方法で体現化されたものでした。

そもそも「誰と結婚するか?」とか「結婚するかしないか?」という具合に結婚を基準に自分の生き方を決めようとしていること自体に限界を感じます。

少し話は変わって冒頭の現代の少女たちについて。

次々と登場する少女たち、楽しそうに笑う少女と少し羨ましそうにそれを見詰める少女がほぼ交互に出てきます。あの羨ましそうに見詰める眼差しを見ていてカンピオン監督の「エンジェル・アット・マイ・テーブル」を思い出しました。

あの映画の主人公も最初は、いつも羨ましそうに友人の長い髪や素敵な恋人を見詰めていました。でも彼女は最後には他者と自分とを比較したり、他者との関わりで自分の幸せを測るようなことをせず、ただ自分が自分らしく生きる、自分がただひとりの人間として尊厳を持って生きるという道を選択します。そんな彼女は自信満々で少しもおどおどした所なんかありません。そういう意味では時代が現代に近いというだけでなく「ピアノ・レッスン」のエイダ以上に自由な女性像、現代的な女性像を描き切っていたと思います。

それではイザベルはどうだったのでしょう。それを解く鍵はやはりラストシーンでしょう。

ラルフの「真実の愛」に気付いた彼女は今度は葬儀の後キャスパーにに迫られます。彼女は一度は拒みますがやがて彼に身を任せます。この時彼女を支配したのは恐らくは性的衝動、つまりは本質的にオズモンドに惹かれたのと大して変わらない欲求であったはず。もし彼女が彼に抱かれたままエンディングを迎えたとしたら、それはそれでひとつの「現代的な女性像」を描いていたともいえるでしょう。(「ピアノ・レッスン」のエイダはこのタイプ)

しかし、彼女は彼の腕を振り解き屋敷へと走ります。そして一旦屋敷に入りかけて止め、振り返ります。強い意志を秘めた印象的な表情で。

このラストシーン、原作ではローマのオズモンドの許へ戻るという選択を示唆するものだそうですが、僕はどうしてもそうは思えませんでした。もし原作の通り、結果としてオズモンドのところへ戻ったのだとしても、それは甘んじて「伝統や格式」を受け容れたからだとは思えなかったのです。そして、結婚をはじめとして異性との関わりでしか自分の自由や幸せを測れない女性の態度とも思えませんでした。

もし彼女が温かい屋敷の中へ逃げ込んだとしたらそれは彼女が結局は「伝統や格式」の傘の下で生きることを選んだということになるでしょう。これは若き乙女パンジーの姿です。

もし彼女が屋敷の中へ戻ることはできない、今更やり直すことはできない、という理由でオズモンドの許に戻ったのだとしたら、それはまさにマダム・マールの姿とダブるものです。結局は「伝統や格式」の枠から逃れられず、自分の選択の過ちを知りながらもそれを受け容れる女性です。

それでは彼女はどういう選択をとったのか。

「責任をとる誇りが人間にとって一番大事だ。」というオズモンドの言葉にどういうけりをつけたのでしょうか。

彼女は自分の誤りを認め、新しい生き方を選択し直したのです。恐らくは、自分がたったひとりの人間として自分らしい生き方をする道を選んだのではないでしょうか。だから、あの後、彼女は屋敷にも入らず、オズモンドの所に戻ることもせず、凍てつく雪道をひとりで歩き出したような気がするのです、僕は。

3人の女性はそれぞれ「自分では運命を選択しない(ということを自分で選択した)女性」「自分がたった一度だけ選択した運命をどこまでも受け容れる女性」そして「何度でも運命を選択し続ける女性」と言うことが出来るでしょう。

そういう意味ではイザベルは「ピアノレッスン」の女性像よりも「エンジェル・アット・マイ・テーブル」に近く、より現代的な感覚を持っているような気がします。

繊細な感情の描写とそれを忠実に表現した演技、カンピオンとキッドマン、二人の才女に脱帽です。
97/02/13(木) 23:58

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