地震の夜に(「ショートカッツ」「ヘヴン」「ひかりのまち」)
大きな地震があって「ショートカッツ」を思い出している。巧みに構成された群像劇を全部リセットしてしまうような大地震。この群像劇がレイモンド・カーヴァーの原作とアルトマンの熟練の組み合わせで構成された神の視点によるものだという証明。出会いの偶然による悲喜劇を俯瞰して見つめながら巧みに操り、そして最後にそれを全て壊して見せる、そんな群像劇。
対して、神の視点は無く、登場人物の一人として、主人公の一人として自分を感じることの出来る群像劇もある。楊徳昌の全ての作品、それからキェシロフスキ。
そういえばキェシロフスキの遺稿をトム・ティクヴァが映画化した「ヘヴン」の冒頭にはヘリコプターのフライトシミュレーションの映像が出てくる。その後にもタイトルロールの最後にローマの空撮が。天空から人々を見下ろす神の視点。
神の視点で始まったこの作品は、個人と個人の愛の交流として描かれ、そして最後にまた天に昇る。神様と人間の間を行ったり来たりする、運命と選択との織り成すドラマ。まさにキェシロフスキの世界そのもの。
対して楊徳昌の作品では常に僕たちと同じ視点で世界が広がっている。悩んだり、苦しんだり、誰かのことを愛しく思ったり、騙したり、怒ったり、優しい言葉をかけたり、無言で抱擁をしたり・・・。不完全で未成熟な登場人物たちが都会で生きている数日間を僕らと同じ目線で切り取っている。彼らは僕らで、僕らは彼ら。彼らの肩を抱いてあげたくなるし、彼らから希望のようなものを(無意識のうちに)差し出してもらったりする。
ウィンターボトムの「ひかりのまち」は手持ちカメラで、ロンドンの街に生きる3人の姉妹と、その周辺の人たちと、それから僕自身がそこにいるような感覚を再現してくれている。人生の中の、たった3日間。それが「ただの3日間」なのか「かけがえのない3日間」なのかは自分では分からないけど、でもそこには一人一人が間違いなく主人公なのだと思える時間がある。そこでは神の賢さではなく、人の愚かさを感じることが出来る。
キェシロフスキの遺作「トリコロール 赤の愛」のラストは海難事故のニュースのシーン。神の視点で事故を伝えながら、「青」「白」の登場人物たちと、それから「赤」のヒロイン(キェシロフスキ最愛のミューズであるイレーヌ・ジャコブが演じる)ヴァランティーヌの無事を伝える。
真夜中の地震で僕は大切な人のことを思った。傍らで何も知らずにスヤスヤと寝ている娘と、大切な友人と、それから君と。
神様が僕をどんな風に見つめているのかは知らない。僕は大切な人のことを思いながら、僕の知らない誰かとどこかで繋がりながら、僕を生きている。