少女は卒業しない
地獄のアディショナルタイムの地獄感を分かる人は少なくないだろう。僕もその一人だ。程度の差こそあれ、自分と他人を比べれば比べるほど、そういう気持ちを味わうことになる。
だけど、いくつかの経験を通じて、あとは、何本かの映画を通じて実感したことは、多分、あの図書館にいた先生のそれとよく似ていて、それは
「アディショナルタイムにこそ“何か”があるのが人生だ」
ということだ。
彼女よりほんの少しだけ長く生きている彼は、とても優しく、そして、とても明快にアディショナルタイムの心得を伝授する。
行動を起こせ。世界に向かって自分を開け。そして自分であれ。
小さな勇気と行動が新しい世界に自分を誘ってくれる。
彼女たちは皆、誰かに、何かに背中を押されて、行動を起こす。
起こした行動の結果として何かを得る者もいれば、何かを失う者もいる。でも、その喪失は潔くキッパリとしていて、決して振り返ることなく前を向いて進むためのものだ。
軽音楽部の部長の彼女も、それから女バス部員の彼女も。
ある日を境に否応なくその場を追われる理不尽さの中でこそ、彼女たちの潔さが際立つ。
答辞を読んだ彼女はどうなんだろう?最も厳格で最も理不尽な別れを体験してしまった彼女は、もう一度、二人きりで彼と向かい合って、そして潔く前を向いて歩きだすことが出来たのだろうか?聞きなれた答辞が、彼女と彼にだけは特別の意味を持つ。それから、いつの間にか僕たちにも・・・。
実は僕は(大した理由もなく)高校の卒業式には出席していない。だから地獄のアディショナルタイムすら味わっていない。さほど後悔もしてないけれど、その代わり、先生のように実体験に基づいたアドバイスをする資格は持っていないということになる。
でも、映画の中の彼女たちをとても身近に、とても愛しく感じられたように、人生の中のあの時期、あの瞬間だけは、たぶん誰にでも等しい感慨を起こすことが出来て、だから、僕はそういうものを頼りに、優しく、明快にアドバイスをすることが出来ると思っている。
もし機会があるのなら、娘たちに(いやがられても、無視されても)アディショナルタイムの心得を伝えてあげられるといいのだけど。
多分、きっと、大丈夫。それがあったとしても、無かったとしても。