午前4時にパリの夜は明ける

銀座で見た。
久し振りの銀座は様変わりしていて、観光とショッピングが目当ての軽薄な外国人観光客で溢れかえっていて、そこには僕の好きだった、少しだけ背伸びが出来て、歩くだけで少し心が浮き立つようなあの銀座は無かった。90年代から20年分くらいの思い出をたどって少し歩くと、その場所だけはキチンと残っていたり、その場所すら無くなってしまっていたりで、さらに寂しくなったり居心地が悪くなったりして、開映時間前の映画館に逃げ込んだ。
映画館(たぶん、いくぶん時代から取り残された)の中にはあの頃と変わらない空間があって、やがて始まった予告編にも少し心が躍った。そして・・・
パリには一度だけ行ったことがある。92年だったので、この映画の少し後くらいだ。
1度だけ訪ねたパリも、それから、その後、スクリーンを通してみたパリも、そこにはいつも変わらないパリがあった。ルコントの、デプレシャンの、ドヌーヴの、それからゲンズブールの・・・。
「アマンダと僕」がとにかく素晴らしくて、僕はこのミカエル・アースという人のことを全面的に信頼して、この映画を見に行った。パリも信頼しているし、フランスも信頼しているし、ゲンズブールも滅茶苦茶に信頼している。そしてその信頼は(当たり前だけど)裏切られなかった。
原題の「Les passagers de la nuit」は夜の乗客。映画に出てくる深夜のラジオ番組の名前だ。とても良いタイトルだけど、邦題も悪くない。この映画の主人公はパリの街だからだ。
優しくて、大人で、皮肉屋で、情緒不安定で、そして温かくて愛しい人々と街。パリならば映画館の中も、外も、どこでもゆっくりと僕は歩いてみたいと思った。
ゲンズブールの母親役は初めてで、それがとても説得力があって、少し調べてみたら、彼女には3人の子供がいるらしい。うん、きっと、多分、こういう母親なのだと思う。
大人な母子、自立した母子、関わり過ぎず、でも決して見放さず、自分の不完全さを決して隠さず親子であり続ける母子。一人の女性としての人生を決してあきらめず、そして、まるで我が子のように、彼女(タルラ)に対しても愛情を注ぐ(それが彼女の不安定さや欠損の穴埋めのようなものだとしても)。それがどんな関係であっても、どんなプロセスや選択の結果だとしても、まずはそれをリスペクトして受容して、見守る懐の深さが、随所に散りばめられていた。
また、あちこちに、出かけていけるようになって、出来ればまた海外にも出かけてみたい。パリの街を歩いたり、夜のパリを眺めたり、そんな旅行もしてみたいと心から思えた。
久し振りに訪ねた外国人で溢れた銀座で映画を見た。パリの、ゲンズブールの、映画を見た。

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