ショコラ
「人生は変えることができるわ。」
10歳の少年でも80歳の老婆でも犬でもカンガルーでも人生は自分の力でだけ、変えることができるのだと・・・。
神様にも両親にも夫にも、決して他の誰にも自分の人生を自由にしてもらうことは出来ません。
「ギルバート・グレイプ」では閉鎖された町に閉じ込められていたデップが今度は流離うものとして映画に登場します。
しかし、流離うもの=自由、町にとどまるもの=不自由という単純な図式ではありません。もとより「ギルバート・グレイプ」はそこに止まっても、そこから飛び出しても自由はそこにあるのだと、人生は変えることができるのだと語っていた映画でした。彼が何もかもを投げ出して街を出て行ったとしても其処に待っていたのはまた違う不自由だったことでしょう。
北風に誘われて街を出て行こうとするヴィアンヌ。抵抗する娘を引きずって家を飛び出そうとしたとき、彼女を縛っていた亡き母の形見が零れ落ちます。彼女もまた、「戦うべき戦いに挑むこと」を知らず知らずのうちに自分に強いていたのでした。
暖かいチョコレートだけでなく、ままならない人生を変える勇気をヴィアンヌから貰った人々が今度は彼女に訴えます。自由は年齢や性別や身分や生まれた場所、住む場所によって決まるのではないと。慣れぬ手つきでこしらえたチョコレートも添えられていました。
南米の音楽とルー達のジプシーの音楽のシンクロが素晴らしい。解放され、闇夜に浮かぶ炎の中、ダンスに興じる村の人々。ビノシュのあんな楽しそうな顔は久し振りに見ました。不自由な足を引きずりながら孫とステップを踏むデンチ、涙が出ました。
封建的な村の象徴である村長の存在は「サイダー・ハウス・ルール」を想起させます。映画の冒頭、礼節や質素を重んじた村のしきたり自体についてナレーションが入りますが、これはその後の展開から、彼を皮肉っているようにも聞こえます。でも僕は彼女が村のそうしたしきたりをキチンと尊重しているように感じました。決してその掟自体を否定しているわけではありません。
村の掟は元来、人々をそれにかしずかせる為のものではなくて、もっとパーソナルな人々の幸せを願ってのものであったのでしょう。チョコ塗れになりながら、ようやくそのことに気がついた子孫をみて、掟の主もやっと肩を撫で下ろしたようでした。
善人ばかりが登場する物語は本当にまるでチョコレートのように甘いと言われるかもしれません。確かに物語だけを見ればそうかもしれない(映画の中の村が非常にリアリティに乏しい設定であったのは象徴的)。でもこの作品にあるのが、善い人は必ず幸せになれるという身勝手な楽観主義でも、善い人が辛い境遇に堪え続ける身勝手な悲観主義でもないことは確かです。自分の力で自分のまわりの世界を劇的に変えてしまうことのできるパワーを持った人々。僕はハルストレムの描くこうした人物達にリアリティを感じ、だからこそいつも彼らに元気づけられるのです。
01/04/29(日) 22:09