桜桃の味
荒涼とした砂の山に雨が降る。そこに雨が降り、新しい命が育まれるんだということを忘れてしまいそうなほど荒涼とした砂の山に。
キアロスタミお得意のジグザグ道を行く一台の車。砂埃が舞う荒れた大地を行く車は、もうそれだけで人々の人生を象徴しているようでした。ただ、そのジグザグ道は、道に沿って、ただ車を走らせるだけでなく、車を降り、そこを横切って走ることも出来るのです。ただ車を走らせているだけでは気がつかないことも沢山あるのです。
「車に乗っている主人公」「車に同乗し、やがて車から降りる人々」「車から
見える人々」の対照が印象的でした。
何の飾りもない、ありのままの、ありふれた自然。荒涼とした砂山にも、かけがえのない生命の存在を感じないではいられません。
その風景は「たった一個の木の実の美味しさに人生の喜びを見出すことが出来る」「たった一個の木の実に命を救われることもある」というメッセージと共に、「たった一個の木の実の美味しさを感じることの出来ない人生には何の意味もない。」と語っているようでした。
少しカメラを引いて俯瞰で見てみると・・・・・・
今まで見たキアロスタミの映画の中で最も饒舌な、あの老人。生きることの意味、生きることの喜びをストレートに切々と語る彼の言葉は”言葉で語らない”キアロスタミ映画には異質の存在といえるでしょう。
そう言えば彼は最初から車に乗っています。車に乗っている人を「死んでいく人」車の外の人を「生きている人」と対比させるなら、彼の存在は例えば神様のようにも感じさせられるし、自ら命を絶つことを選んだ死者の代表のようにも感じられるのです。
しかし、キアロスタミは敢えてもう一度彼を登場させます。博物館を訪ねるバディ。老人が実体を持たない人物でなく現実の存在であるということを我々にも確認させるのです。
そしてキアロスタミは、もう一つの「さらにリアルな現実」を用意します。
いつのまにか草木が青々と茂っている春の風景。そこを走る兵士たち。生きる喜びに溢れたその風景が「映画という虚構」であるという現実を我々に確認させるのです。
ジグザグ道を走る人さえ、生命を感じさせる砂山さえ、雷さえ、桜桃の味さえ、「映画という虚構」に過ぎないということを彼は敢えて語るのです。
「映画の中では主人公は生きる喜びを見出そうとするが、現実の世界ではどうなるか分からない。」
そのメッセージの中には自ら死を選択した人々への敬意も込められているのでしょうか?
「現実と虚構」「ドキュメンタリーとドラマ」との絡み合いはキアロスタミ映画で、ことごとく追求されているものです。彼の描く現実(虚構)はかなり細かい階層に分かれているように感じられます。レベル1の現実(虚構)レベル2、レベル3の現実(虚構)という具合に。全てを現実と見ることも、その反対も可能です。
僕は、”幾つかのレベルの違う現実にまたがっているように見える”あの老人の言葉が忘れられなくて、全ての現実において「生きる希望」のようなものを感じないではいられませんでした。
車で送ってもらった別れ際、老人は言います。
「やるのは簡単だが口で説明するのは辛いことなんだよ。」
やはり、死者の言葉ともとれるこの台詞。僕は「桜桃の味」という映画は言葉で語らないキアロスタミが「敢えて語った映画」だと思いました。そして彼が敢えて語ったのは、やはり「生きる希望」だったと思うのです。勿論、彼自身がコントロールしている、全てのレベルの違う現実において。
98/03/11(水) 00:01