(500)日のサマー
3つ。印象に残っているシーンは3つ。
思い出の場所でトムを待つサマー。何日も何時間も、きっと彼が来ると信じて待っていたはず。
真実を語る彼女からは、彼と過ごしていたときのキラキラするような輝きは失われて、その代わりに決然とした強さのようなものがしっかりと宿っていました。
彼女の中に芽生えた強さの正体が何なのか、改めて言葉にするまでもないのですが、それでもそうしてみようと思います。
少し巻き戻し
共通の知り合いの結婚パーティーに招かれて久しぶりに再会する二人。ギクシャクしてしばらく会わず、気まずくなってもおかしくない二人は、意外にすんなりと打ち解けて微笑み合います。まるで、何度でも再会できて、そのたびに何度でも恋に落ちることが出来るような。そんな高揚感が自然ににじみ出ていて、トムだけじゃなく僕だって彼女をまた好きにならないではいられませんでした。本当に、通じ合って分かり合える二人なら、いつでも何度でも恋を始めることが出来るんだなぁって。
でもサマーが選んだのは、進んだ道は、それとは別のものでした。何度も再生が可能で、良い所だけを反芻したり、巻き戻したりすることが出来るのが恋だとしたら(1日目→258日目→30日目→432日目って)。彼女が立っているのはそういう場所ではありません。それは恋ではなく、形に残る契約(たとえば結婚とか)でもなく、上手くいくと保証(たとえば理想のカップルとか)されたものでもなく。でも積み重なって、ずっと積み重なって終わらないもの。ただ何かを信じて、自分を投げ出して進まなければいけない選択、運命・・・そんなもの。
最後に出会って、そして見送った思い出の場所で彼女の中に宿っていた決意とは、そんなものでした。
少し早送り
そんな彼女の背中を見送って、温め続けていた夢と共に、また新しい道を歩き始めるトム。
面接の控えスペースでの偶然の出会い。
「終わった後、コーヒーでもどう?」
一度は断った彼女、でもやっぱり思い直して、彼の誘いを受けます。あの揺れる感じはいいなぁ。同じように「運命」「選択」を見つめ続けてきたキェシロフスキをちょっと思い出しました。
さて、このラストシーンはどう見ればいいのでしょうか。
決意を胸に新しい運命に身を委ねるサマーに対して、トムはと言うと夏の次は秋、なんていう分かりやすいゲームをまた1からプレイするようで。ダメダメな(でも憎めない)ゲーム好きの友人二人を引き合いに出すまでもなく、いつまでも子供のままの彼、というシニカルな見方が出来なくもありません。
でもまた恋が終わる頃には(ハッピーエンドでも、そうでなくても)少しだけ大人になって、運命に身を委ねる準備が出来るようになる。
たとえずっとそれの繰り返しだとしても、それはそれで悪くないかもしれないなぁって。
たとえ「恋の物語じゃない」という注釈つきでも、僕にはやっぱりとても眩しくて少し羨ましくなる500日でした。
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