二人が喋ってる。

大阪を舞台にした僕の大好きな漫画「じゃりん子チエ」。そのテレビシリーズの最終回のエンディングには
「おわりです。」
と出て来るのですが、これはもうはっきりと字幕だけでも、標準語のそれではなくて大阪弁の「おわりです。」になっていました。
で、「二人が喋ってる」でも最後に「二人が喋ってる」という字幕が出るのですが、今日の場合は大阪弁でなく標準語の「二人が喋ってる」に感じられました。これは理屈ではないのかもしれません。
そして、これは作品が大阪の雰囲気を十分に表現できていなかったからではなくて(むしろ映画の出来としてはその反対)、作り手が「観察する姿勢」で大阪や登場人物たちを見ていたからだと思います。
「仲の良いコンビは大成しない」
と漫才の世界ではよく言うらしいのですが、友達でも仲間でもない二人がそれでも「ただ客を笑わせるためだけに」二人で居続けるというのは非常に不条理な話です。
長い長い漫才さながらに時間も場所もどんどん飛ばして繰り広げられる笑いの数々、そこには様々な不条理が存在します。作り手が作品を通して観察し、切り取って見せたものの一つは「不条理が笑いの本質であるということ」でした。
「オヤジが死んだらその死体を笑いのネタに使う!」
と松本人志は言いました。
或いは
「ブラックユーモアとはどういうものですか?」と尋ねられた時、立川談志はこう答えていました。
「ブラックユーモアなんてない!あるのはブラックだけだ。」
そんな彼はつい最近自らのガンを告白し、もちろんそれを笑いのネタにしました。決してユーモアなど交えず・・・。
笑いの本質が不条理だとしたらそのネタとして「死」程、効果的なものはないのかもしれません。
作品中、入院した相方を見舞いに来た男とその恋人、3人の病室でのシーンが圧巻でした。首吊り、白骨死体と来て、当然その次には、相方が「注射でショック死」して、その事を新しい相方とネタにするシーンがくると思ったのです
が・・・。
主人公の二人も様々な不条理に見舞われます。もうそれこそ「ブラック」としか言いようのないような・・・。それでも、それが全部ネタになる。
笑いの本質が不条理で、人生が不条理の連続だとすると、「何でも笑い飛ばしてやろう」という生き方は意外と自然なのかもしれません。
もっともそれには、知恵や腕力やバイタリティが、かなり必要ですが。
トゥナイトの二人は溌剌としていて気持ちよかったです。東京ではまだまだマイナーだと思いますが、そのうち、ちょくちょく見かけるようになるのでしょうか?変な理屈を抜きにしても、テンポがあって十分に楽しめる作品でした。
97/09/24(水) 02:34

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