オネーギンの恋文

実はスクリーンでリヴ・タイラーを見るのは初めてでした。

「私は可能性を信じます。」

そう言った時の彼女の力のある眼差しに圧倒されました。

この映画は「可能性を信じる人」の物語です。「可能性を信じる人」はどの時代でも一種の愚かさのようなものを持っています。その愚かさは時代を変えたいという信念である場合もあるし、誰かを愛するひたむきさである場合もあります。

タチヤーナのひたむきさがオネーギンには愚かだと映りました。貴族の世界、退廃的な時代の空気の中に生きてきたオネーギンには可能性を信じる愚かさが、若さと田舎育ちの為のものだと思えたのでしょうか。それとも「時代」という砦の堅牢さを知り抜いていたからでしょうか。彼女の純粋さに動揺しながらも、決して時代と対決することはありませんでした。彼が決闘を拒めなかったのも、彼女の前から姿を消したのも、全て彼が時代と対決することを選ばなかったからなのでしょう。

六年の歳月が流れ、ペテルブルグに戻ったオネーギン。彼の前に華麗に成長したタチヤーナが再び現れます。しかし彼女は既に空虚な貴族の世界に身を投じていました。優雅さや気品と引き換えに、彼女はあの力強い眼差しを失っていました。柱から顔を覗かせて彼を見つめた時、舟の上から水辺にいる彼を見つめた時、決闘の日、息を呑んで彼を見つめた時、あの時のような真っ直ぐな眼差しはもう彼女にはありませんでした。

「私の愛を拒んだ時のあなたの方がもっと堂々としていた。」

今度はオネーギンの愚かさをタチヤーナが拒みます。「あなたが現れるのが遅すぎた。」と。

もしオネーギンがかつての輝きそのままにタチヤーナの前に現れていたら、彼女はもっと動揺したでしょうか?
それはないと思います。もし、そうして彼女が彼のことを受け容れていたとしたら、それは「夫を貰ってから、それでも愛情が欲しければ愛人を作ればいい。」という貴族の生き方をもそのまま受け容れることになってしまうからです。
時代と対決することを選ばなければ彼女は最初から空虚な貴族の世界に悩むことなどない筈です(ちょうど彼女の妹のように)。

だから、彼女を救い出すことの出来るのはオネーギンしかいないと思います。
病気の体を引きずって、雪の中、彼女の屋敷へ向かうオネーギン。ほんの僅かの可能性を信じるしかない彼の愚かさしか時代を変えることはできないからです。
00/06/16(金) 19:27

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です