ミニー&モスコウィッツ
かけがえのないものを失ってしまったのか、それとも最初から何かの欠損を抱えているのか、登場人物達は皆一様にどこか欠けている人々ばかりです。病んでいると言ってしまってもいいくらいに。
と言っても彼らは映画のためにわざわざ選ばれたわけではありません。
彼らは殴られれば血を流し、傷つけば声をあげて泣き、ときには大声で喚き散らし合います。そこからは、映画から飛び出してしまいそうなほど人間臭い一人一人を、極端に情に流されることなく、それでも暖かい眼差しで見つめているカサヴェテスの視線を感じることが出来ます。
彼は知っています。人は誰でも欠損を抱えていて、いつも誰かのことを求めていて、でも出会いがいつも必ず欠損を埋めてくれるわけでなく、人を癒してくれるばかりではないということを。
そして、それでも憧れ続け、求め続ける人に「まるで映画のような」出会いが訪れることもあるということを。
表現者としての彼はそうした感慨に殊更に浸ることをせず、見るものに出来合いの人間ドラマを押し付けることなく、自分の愛する人々を見つめる暖かい眼差しそのままに人々の表情を写し取ろうとしています。
そしてギリギリの方法で観客と自分の接点を見つけ出そうとする真摯な姿勢も併せ持っています。
冒頭のカフェ(バー?)でモスコウィッツに絡む男、ミニーの同僚の孤独な老学芸員、二人が出会った新米の駐車場係。
映画の其処此処に「もう一人のモスコウィッツ」「もう一人のミニー」がさり気なく配置されています。
そして(今ここにいる僕たちのように!)いつも素敵な出会いに憧れてスクリーンを見つめる「ミニーとモスコウィッツ」
「映画はありもしないことを思い込ませる幻想よ!」
ミニーはそう言います。でも彼女にはありもしないことを信じられる力がありました。そしてこの映画には「信じたくなるもの」が確かにありました。
この映画は僕にとって「ミニーとモスコウィッツ」と「もう一人のミニーとモスコウィッツ達」のお話だったのでした。
チャーミングで逞しく、したたかで暖かいモスコウィッツの母親(最高!)と、おずおずとミニーの付添人を努めた老学芸員と、沢山の子供たちに囲まれたミニー。
最後には女性の可愛さと強さに一番の希望を感じさせられました。
00/04/26(水) 23:13