M/OTHER
階下で罵り合う男と女。初めて知る「他人」という異物との関わりのなかで彼はきっと、体中の神経を集中させて父とその恋人の言葉を聞いていたのではないでしょうか。
相手のことを考えているようで、いつのまにか自分のことしか考えていない。
他人との関わりを通して初めてそれに気がついた時、そこには相手の身になっていると思い込み、独り善がりに酔いしれている自分がいます。
でもまだまだ甘い。自分が独り善がりだったと、これまた自分勝手に反省したり、弁解したり、開き直ったりしてるうちは・・・。
三浦友和の台詞でも少し触れられていましたが
夫婦とか親子とか兄弟とかそういう関係性を予め定義して、それを演じることで、異物と一つ屋根の下、暮らすやり方はもはや通用しなくなっていることに気がつかなければいけないのかもしれません。
前作同様、濃く深く異物と触れ合う状況を作り出すために、役者にも出来上がったキャラクターやシーンを漫然と演じることを許さない手法はある種、必然だったのでしょう。
前作を彷彿とさせる「結婚しようよ」と言う台詞の危うさ、軽さ、虚しさ・・・
見事なまでに鈍感な男と感受性が強く感情の揺れが激しい繊細な女性という設定は、「演じること」以前の問題ではあるものの、やや諏訪作品のステレオタイプなのかもしれません。
しかし、鈍感さの中に、鈍感であるがゆえの強さと弱さの両方を見せてくれた三浦友和と、前作でも短いシーンで強烈な印象を残した渡辺真起子の見事な演技がなければ、これほどまでに厚みのある人間ドラマは出来上がらなかったことでしょう。
渡辺真起子は柳愛里の異様なほどの線の細さに比べれば、唇は厚いし、お尻は大きいし、ずっと逞しい印象を持ったのですが、それだけに感情が高ぶった時の演技には迫力がありました。きっと諏訪映画の顔になることでしょう。
弦楽器のノイズと不安定なカメラワークで終わるエンディングは決して避けることが出来ない異物との関わりの難しさを象徴しています。
しかし、それでも人は異物との触れ合い、関わり合いをもっともっと求めようとします。
これは絶対に本能以外の何物でもないと思う。
お決まりの言葉で大人の女性を演じる母親から、もう一度電話を奪い取って他人という異物に話しかける少年。父親とラブラブな女性に・・・、父親と罵り合った女性に・・・、「なんであんたの子なんか!」と言った女性に・・・。
大人の男と女に加えて、少年を登場させた意図はここにあったのでした。
99/12/06(月) 00:04