2/デュオ

胸を締め付ける映画は沢山あります。でもこの映画みたいに胸の一番奥の奥の方だけを締め付ける映画は見たことがありません。

二人の時の自分は、一人の時の自分よりももっと奥の奥の方にいる自分なのかもしれません。

今年の邦画ベストです。
97/08/31(日) 01:08

再見

女に「ありがとう」と告げ、立ち去り、そして女と暮らした家を引き払う男。そこに訪ねて来る女。

この何とも言えないラストをどう見るか?再見の今回はそんな事を考えていました。

「ハッピーエンドなのかどうか?」と考えた場合、あの後二人が抱き合って昔のように共に歩きはじめたのか?それともやっぱり男にとっては既に清算した過去の女性であり、家を引き払うと同時に彼女の存在も消えていたと見るか・・・。そういう選択肢で判断出来るのかなと思っていたのです。
だけど、それはあまり関係のないことでした。あのラストは曖昧で余韻が残っているようで、実は、もう既にキッパリと結論を出していました。
男と別れて女は初めて、自分の存在に気がつきます。ペダルが足についていけないくらい自転車を漕ぎ、そして飛び跳ねたり踊ったりしながら、思いっきりの笑顔を見せます。彼女は言います。

「彼のことが大好きだ」と。

二人でいる時は見えなかった本当の自分。呪縛から解き放たれて、自分の足で歩くこと、走ることの喜びを知った彼女が、見つけたのは本当の自分だった筈。その彼女が、それでももう一度、あの部屋に戻ってきたのです。彼を訪ねていったのです。

あのあと、二人がどうなったかということは、蛇足中の蛇足でした。彼女はひょっとしたら彼ではないかもしれないけれど、絶対に一人ぼっちではなく、誰かと二人で生きていこうとするに違いないのですから。
97/09/13(土) 03:14

2/デュオ に関する対話の断片

**さん、はじめまして。スーダラです。

》 彼のわがままぶりにはちょっとイライラしてしまいました。
》俳優の仕事がうまくいかず、焦ったり不安になるのは仕方ないけど
》何の罪もない彼女に八つ当たりするのは納得いかない。甘ったれてるとしか
》思えない。
》彼女の方もおとなしすぎて、じれったかった。

俳優志望の彼(チョット奥田民生風)は本当にだらしのない人でした。見ている僕たちをイライラさせたということはなかなか現実味のある名演だったのでしょう。
で、僕は二人の遣り取りの中で少し違う現実味を感じました。確かに、彼の仕事がうまくいっていなかったということが二人の破局の原因という風に一応描かれてはいるのですが、映画によくありがちの「酒の勢いで」とかいう演出が一切なかったですよね。
僕は「二人が二人でいること」が二人の破局の最大の原因だと感じられたのです。ひょっとしたら、彼の仕事が順調だったとしても同じ事になっていたかも。
彼が甘ったれるのも彼女がじれったいのも全部「二人でいること」から来ているのではないでしょうか。
テーマ自体は新鮮ではないのかもしれませんが、余計なものを削ぎ落としたおかけで、まるで我が事のようなリアリティを感じました。

》最後の方のインタビュー風の場面での彼女のセリフで
》「頼られていると思ってたけど、本当は頼っていた」というのが
》あるのですが、なんだか妙に印象に残っています。

「そういう風に頼られている自分が好きだった。」とも言っていましたね。
「二人でいること」って、「頼ることと頼られること」「思いやることと憎むこと」が全く同じ意味だったりするんですよね。だからお互いや自分が見えなくなってしまう。何にも見えなくて幸せならいいんですけど、不幸せな場合も当然ある。その事にはっきりと気がついたはずの彼女の方(多分彼は気がついていないでしょう。)が、それでも、もう一度彼を訪ねるのです。

》あの抑揚の少ないしゃべり方は、物語の中の女優のダイアログというより
》私達の日常での会話により近いものであるのかもなと、
》彼女の無邪気な笑顔や愛らしいしぐさをぼんやりと眺めながら感じたのでし
》た。

まるで部屋の中を覗き見しているような感覚でした。僕は彼女の泣いているシーンが印象に残っています。オロオロと狼狽する姿や細い体から声を絞り出すようにして泣く姿が。プログラムではお姉さん(柳美里)も「小さくてもキラリと光っている」と書いていましたが、本当に存在感がありました。
97/09/21(日) 19:18

***さん、どうも。スーダラです。

「おかえり」は僕も大好きな作品で、アテネフランセの凱旋上映を含め5回見ました。

》『おかえり』の二人は同じモノを見ようとして近づき過ぎて、互い
》の距離の反対側に無限の隔たりを感じていました。

この***さんの表現、すんなりと分かるようで、意外に難解で、ひょっとしたら僕は取り違えているかもしれません。僕は僕なりに「おかえり」について思う事を書くことにします。

「おかえり」の二人、特に奥さんを支配していたのは「二人でいても決して癒されない孤独」「愛する人と一緒にいても決して消えない不安」でした。彼女は「二人で生きていく」ということは、同じ道を、同じ物を見ながら、同じ事を考えて歩かなければいけないんだというプレッシャーから次第に「変化のない日常」に固執するようになっていきます。「変化のない日常」こそが自分にとっての幸せだと信じなければいけないというプレッシャーがあったのかもしれません。そして表札の1ミリのずれにも過敏になる「日常」から次第に「非日常」へと足を踏み入れていくのです。

ラストシーン、波の音をバックに同じ場所に立ち、同じ風景を眺める二人、二人が行き着いたのはどういう感慨(決意)だったのでしょうか。

それは、どんなに側にいても決して癒されることのないそれぞれの孤独感、二人が決して一つにはなれないという一種の諦め(悟り)のような物でした。言い換えれば、血の繋がらない赤の他人である二人が一緒に生きていくということは「最初から壊れている」のだということに気がついたのです。
極々簡単に、この矛盾に向かうのなら、(夫婦とか、幸せな夫婦とか、とても幸せな夫婦とかの)予め決められた関係に、二人を置いて、勝手にその役割をお互いが演じるというやり方があるでしょう(例えば子供の力とかを借りて)。
しかし、二人にはもうこのやり方は通用しないわけで、結局二人は刻一刻と変わる二人の関係を見つめ、そして受け容れるやり方を採用したのです。
お互いが別々の人間で、別々のものを見て、別々のことを考えるということを認めた上でそれでも一緒に歩くことを決意したということになるでしょうか。
だから、妻にとっての癒しは(僕たちから見て)彼女が正常かどうかということとは関係なく、そんな彼女のありのままを受け容れてくれる夫の存在であるということになります。

いつも二人で一緒にいるのではなくて、どちらかが(何時やって来るかわからない、誰にでもやって来る)どうしようもない不安や孤独に耐えられなくなった時「おかえり」と言って相手を迎え入れてあげるような関係

「2/デュオ」のなかでの「結婚しようよ!」という言葉は「おかえり」という言葉の対極にあるものです。二人が無理矢理一つの道を歩くことを強制し「おかえり」のヒロインが陥ったプレッシャーに二人で沈んで行こうとする言葉に他なりません。

「2/デュオ」の彼は「二人で生きること」はどちらかがどちらかを背負ったり頼ったりすることだと思っている男です。就職し、彼女に再会した彼は、「今度は自分が彼女を背負う事が出来る」と思っていたはずです。

一方の彼女は「おかえり」の二人の境地に達しているように僕には見えました。
97/09/24(水) 01:42

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