あの子を探して

赤いほっぺの上を不器用に零れていく涙。小さな村の小さな女先生の必死の呼びかけ。予告編で何度も見ていたのに、やはり涙腺が反応してしまいました。
彼女の呼びかけはホエクーだけでなく、国中の人に届き、善意の寄付が寄せられ貧しい村の小学校には沢山の文具が送られたのでした。めでたしめでたし。

でも子供たちに国中の善意を届け満足げに去っていくテレビクルーたちを見て、僕のなかには何か釈然としないものが残ったのでした。こんなに簡単でいいのだろうか?貧しくなくなればそれでいいのだろうか?という疑問。第一これでは映画は要らないということになっちゃうんじゃないの?

クルーたちが去った後の教室。色とりどりのチョークを囲んで集まる先生と生徒たち。チャン・イーモウは僕のもやもやに対してもきちんと答えを出してくれました。

思い思いの文字を黒板いっぱいに次々と書き込んでいく子供たち。字の書けないおチビちゃんまで花の絵をかいたりして(^.^)。そう、それはまるで黒板いっぱいに花が咲いているようでした。
子供たちを輝かせているのは“与えられた”物質的な豊かさではなくて、彼らの中に最初からある豊かさなのだということが伝わってきます。彼らが他人から与えられたストーリーではなく、それぞれに自分で考え選び取ることの出来る人生を生きているのだということも。彼らが貧しくても、そうでなくても彼らの生き方を勝手に限定しているのは(テレビだったり、中途半端な知識という名の偏見だったりといった)彼ら以外の人たちなのです。
助ける人も助けられる人も与えられた役割をこなすことで喜びを得られることができるのがテレビの世界なのだとしたら、映画の居場所はそのストーリーを超えた一人一人の人間の真実の姿と共にあるのかもしれません。この映画のストーリーは映画の中にあって僕たちがそれを与えてもらうのではなく、(最初から)僕たちの中にこそあったのだと感じました。

お気に入りの登場人物、素敵な女性が二人。

一人はホエクーに食事を与えてくれた食堂の女将さん、もう一人は学習委員の女の子ミンシエン。

僕は女将さんが実は貧しい農村の出身で幼い頃から一生懸命働いてやっと自分の店を持てるようになったのだというストーリーと、成長したミンシェンが立派な先生になって水泉“希望”小学校に戻ってくるというストーリーの両方を想像してホクホクしていました。
00/08/13(日) 17:50

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です