英国王のスピーチ
大好きな映画を何本も思い出しました。
チャップリンの「独裁者」。
ラストシーン。何かが乗り移ったかのように演説をするチャップリン演じる主人公。そして演説の終わりに彼はたった一人の大切な女性に語りかけます。自分の大切な誰かのために発した言葉こそが多くの国民、世界中の人々に届く。これは真理だと思います。
言葉が声になり音になって誰かに伝わるとき、そこには言葉としての論理的な意味だけではないものが必ず宿ります。奇しくも演説をもって対峙することになった“独裁者”のそれには、カリスマ的な演出や、野心のようなものが。最も困難な時期に望まない役割を引き受けることになった王のそれには忍耐や責任感や誠実さが。
風変わりな先生と教え子の関係は「グッド・ウィル・ハンティング」。
まず大事なのは対等な立場で接すること。そして本音でぶつかること。それから自分の弱みを見せるのを恐れないこと。
英国王が生徒だとばれてしまった時のおどおどしたライオネルと、それを見てどことなく得意げだったジョージ6世の顔が好きです。
経歴や資格を盾に教会から横槍を入れられた時のライオネルの弁明は医師としての挫折や自分の弱さを認めたうえで「それでも私は一人の女性を愛し抜いた。」と堂々と宣言したロビン・ウィリアムスとダブったのでした。
それから「フル・モンティ」
これは頑張る夫を支える妻というプロットの映画を見たときに僕が例外なく思い出す作品なのですが。
ヘレナ・ボナム・カーターは少し角が取れて、包容力のある素敵な妻の役を演じていました。男なんて、夫なんてチョロイもので、妻の「私は信じてるわ。」の一言で力が涌いてくるものなのです。
巨大な祖先の肖像画や、代々受け継がれてきた冠や、肩書きや権威。そんなものだけに支えられた王の言葉が誰かに勇気や希望を与えることはきっとないのだろうと思います。
2011年3月 3日 (木)