日蔭のふたり

どんよりと曇った空から落ちて来る雨が印象的でした。

「いつか晴れた日に」以来のケイト・ウィンスレットを楽しみに劇場に足を運んだのでしたが、期待通りでした。僕はタイトルからして運命に翻弄される悲劇の女性像として、もう少し、か弱い役柄をイメージしていたのですが。あれほど聡明な女性をあれほど魅力的に演じるなんて、流石です。

スーという女性、確かに聡明で賢明な人なのですが、最初から危うさのようなものを感じます。「賢さゆえの危うさ」のような・・・。
一方のジュードには彼女ほどの賢さはありません。しかし彼には「愚かさゆえの強さ」のようなものを感じます。

この作品の主題として「(当時の)キリスト教的倫理観」というのがありますが、それに対しての二人の関わり方も対照的でした。倫理観と対立する境遇になるということでは共通しているのですが。

スーは頭で理解しようとします。非合理的ともいえるキリスト教的倫理観の矛盾を見抜き、常にそういう倫理観と自分の間に距離を保とうと意識的に行動します。しかし、結局はその倫理観を基準にしていた彼女は我が子の死という悲劇を前に、まるで戦いに敗れたかのように神の前にひれ伏すのです。

ジュードは違う。彼は意識的に倫理観と対立しようとして自らを辛い境遇の下に置いたわけではありません。彼の頭の中にあったのは自分が愛する人と結ばれて、共に幸せになりたいという単純な欲求だけです。しかし、単純だからこそ、彼のひた向きさに、スーにはない強さを感じるのです。
そして、重要なのはジュードは「一見倫理的と見える盲信」とは真っ向から対立しても、本当の意味でのキリスト教的倫理観はきちんと自分の中に受け容れていたということです。それこそ生きる支えとして。本来ならこれは彼が「神学」としてそういうものを合理的に理解しようとしていたからと、とれるのかもしれませんが、僕には彼がもっと単純にそういうものを受け容れていたように感じられました(自分の幸せの為にそういうものが必要という具合に)。だから、やっぱり彼は学者には向かないと思うのです。

もうひとり、倫理観に対立した人としてジュードの先妻アラベラという人がいます。彼女は倫理観と対立し、結局はそういうものと全く関わりを持たない場所で自分の幸せを獲得しようとした人なのでしょう。

原作は19世紀末の小説。当時論争を巻き起こした「禁断の文学」だそうです。

今みたいに倫理観が実体を持たない時代では「禁断の・・・」を探すのが難しいですが、多分アラベラのような人が増えているのでしょう。
でも、本当に自分や自分の大切な人の幸せを真剣に考えればジュードのような生き方は決して時代遅れではないとも思うのです。本当に何かを変えられるのはきっと彼のような人物の筈です。
97/08/16(土) 23:34

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