ラン・ローラ・ラン
まるでテレビゲームのように、ゲームオーバーの後、リセットをして新しい人生を選び直す事が出来るような感覚。そんな風にこの映画を楽しんだ“正統派「ラン・ローラ・ラン」支持者”には、ひどく的外れな感想かもしれません。
実際僕もかなり大声出して笑ったり、手を叩いたりしていたのですが・・・・
僕がこの映画を見終えて、真っ先に思い浮かべたのはキェシロフスキでした。
3様のストーリー展開という手法は「偶然」そっくりですが、その他にもキェシロフスキ映画のモチーフが沢山散りばめられていました。
偶然に翻弄されているようで、実は自ら積極的に運命を選択している。自分で運命を選択しているようで偶然に操られている
そんな人間のありさまを静かに見つめる人々が映画の中に登場しています。マニがテレカを借りた盲目の老婆は「トリコロール」に度々登場した老婆の再来に見えました。3番目の話で、目の見えない筈の彼女は自転車に乗った浮浪者を指し示し、彼が積極的に運命を選択する為の手助けをします。彼に「偶然」をプレゼントするのです。
映画の最初にアニメで登場する四角い顔のメガネの男は3番目の話のカジノのディーラーとして再び現れます。彼とそれからカジノの支配人達は皆神様のようで、「デカローグ」で人々の運命をじっと見つめる静かな男のようでした。
電話とか自動車(自動車事故)とか、キェシロフスキ映画に好んで使われる小道具やシチュエーションも効果的に用いられ、映画の演出上重要な役目を果たしていました。
さて、最初に挙げた「偶然」では主人公は3つの選択全てにおいて悲劇的な結末を辿る事になるので、そういう意味では、この映画の、力強く説得力のある楽観主義は明らかに「偶然」とは一線を画す作品です。でも、僕はそこにもこの映画とキェシロフスキ作品との共通性を感じないではいられません。
政治との関わりで主人公を追い続けた「偶然」では全てに悲劇的な結末を用意したキェシロフスキですが、それは「個人」と「政治」という対立を強く意識した上でのことであったはずです。それは「偶然」以降の「個人の領域」に深く踏み込んでいった彼の作品を見れば明らかです。
選択を人任せにする事をやめた二人の主人公に初めて運命は優しく微笑みます。
「デカローグ」や「トリコロール」でも、どうしようもない大きなうねりの中で、それでもせめて「個人の領域」だけでは自分と自分の大切な人を愛し続けていこうとする登場人物達をキェシロフスキは暖かい眼差しで見つめていました。
そういう思いが人の命までも(生きる事と死ぬ事を)ひっくり返してしまうという事、そのことを伝えようとしているところに、二人の映画の力強い説得力の源があるような気がします。
一番好きなシーン。救急車に乗込んだローラが男の手を握り、彼が蘇生するシーン。あの時彼は決してローラに救われたのではなく、自ら生きる事を選択したのです。彼女なしでは決してその選択はありえないのですが。
(デカローグの第二話で快方に向かう男のエピソードを彷彿とさせました。)
シャイなキェシロフスキが語らなかったことを力強く疾走するビートに乗せて堂々と主張したのが「ラン・ローラ・ラン」だったのでした。
僕はトム・ティクヴァの次の作品に、とても期待しています。キェシロフスキが自分の映画と人生をかけて語ろうとしたこと
「誰かの死が誰かに希望を与える事もある。そんな究極の希望もある。」
そのことを彼が堂々と力強い説得力を持って表現してくれることを楽しみにしています。
99/07/26(月) 00:14
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