大地と自由

戦争に代表される人間同士の争いの悲劇性はそれぞれがそれぞれの正義の下、自らの信念を疑うことなく、また相手の正義を受け容れる余地もなく、闘い続けることにあります。

印象的だったシーンが2つ

POUMにより解放された村の地主の屋敷で村人たちが集産化についての話し合いをします。次第にPOUMの兵士たちも話し合いに加わるのですが、そこでの兵士たち、村人たちの見解はそれぞれが微妙に違っていて誰ひとり同じではありません。結局最終的には多数決により、集産化が選択されます。
この決断は「革命の達成か、戦争の勝利か。」という選択肢のうち前者の方を選んだということになるのですが、闘いを続けるのに最も重要な方針ともいえるこの選択においてすら、そしてファシズムを打倒し、自由を勝ち取るというという理想において一枚岩であるはずの民兵においてすら、意見の対立があるということが明らかにされます。

それが話し合いという土俵の上で行われているうちはある程度民主的な決定も行なわれる余地があります。しかし、お互いが銃を持ち、命のやりとりをし、なおかつ個人の微妙な価値観の違いが埋没してしまう戦争という状況の下では必ずと言っていいほど悲劇的な結末が訪れることになります。

「お前も英国人か?俺はマンチェスターの出身だ。」「俺はリバプールだ。」

戦場とは思えないほど親しい雰囲気で話をしていたデヴィッドとCNTの兵士。
しかし彼らはその直後撃ち合い、殺し合い、片方だけが生き残ります。

この二つのシーンは勿論ラストでのブランカの死につながっていきます。

「ケス」でも「レディーバード・レディーバード」でも善と悪の単純な2分法で人物を括ることを決して許さなかったケン・ローチ。自由を勝ち取る闘いであったスペイン内戦での人民軍の立場も決して絶対的な悪(ファシズム)に対する善ではありません。唯一絶対的といえるのは人間が人間としていきるための自由を獲得するという理想だけです。

思えば密告をして殺された神父も、村人を人質にとった兵士も、そして巻き添えになって死んでいった村人たちも皆同じ理想のもので闘い続けていたのではないでしょうか。

「誰も敗者とならぬ闘いに参加しよう。たとえ死が訪れても、その行いは永遠なり。」

そう言って、赤いスカーフを持ったこぶしを掲げる現代の若者にケン・ローチが託した思いは何だったのでしょう。

理想のために死んでいった兵士やその闘いを美化するものでしょうか?死ぬことは負けることではないという考えは歪めて解釈されることも多いのですが。
「社会主義はまだ死んでいない。」と言い切る監督(プログラムより)が望むのは武器を取って闘うことや過去の闘いを振り返ることではないような気がします。

「戦いに勝ったからといって決して達成されることのない、そして負けたからといって決して失われることのないもの。“それぞれの”自由を求める、“一人一人の”理想だけはいつまでもあり続ける。」

ケン・ローチが巨匠といわれるのは彼自身恐らくは並々ならぬ覚悟で自らの理想を信じているのにもかかわらず、その理想を押し付けるのでなく、登場人物や観客にとって普遍的な「自由への理想」を喚起させるという手法を一貫してとり続けているからではないでしょうか。

僕自身も“僕だけの”「自由への理想」について大いに考えさせられました。
97/01/29(水) 01:00

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