バベル

たとえば聾唖の少女であったり、言葉の通じない土地で銃撃に遭った妻を必死に救おうとする夫であったり、荒野に放り出されて助けを求めてさ迷うメイドであったり。
意志の疎通が思うようにはかれない特殊な状況に置かれた登場人物たちの苦悩からはむしろ普遍性を感じることが出来ます。
本当に誰かと繋がりたくて、自分の思いをわかって欲しくて、自分の存在を認めて欲しい時、普段は簡単に様々な人とコミュニケーションがとれていると思っていたのに、実は本当に大切なことは誰にも伝えることができていなかったんだということに気がつかされます。
そういう時に言葉はあまりにも無力で、ただ抱きしめてもらえるあの体がぎゅって小さく縮む感覚と、自分とは違う誰かの体温だけが繋ぎとめてくれます。

でも僕は言葉を費やして、言葉の無力さを思い知らされても、それでも言葉で誰かと繋がろうとすることは放棄したくありません。
少女が若い刑事に託した紙切れ。やり切れない思いで冷酒を煽る彼がふと思い出して見たその紙切れには小さい文字がびっしりと書かれていました。

凶暴な銃弾で人々は繋がっている?僕らの気持ちとは全く関係のないもので、僕らは否応なく繋がっている?

それだけではないと思いたい。確かな実感が得られなくても、「本当に大切なもの」は必ず伝わるんだって。

兄の命を救うために泣きながら投降する弟の言葉が・・・
何も知らず無邪気に「その日の出来事」を父に電話越しに話す息子の言葉が・・・

大都会の真ん中に屹立する超高級マンション。空虚さの象徴ではあるのですが、バックに流れる坂本龍一の音楽に身を任せながら、虚しさとは正反対の希望のようなものも感じることが出来ました。感じたいという思いを感じることが出来たのかもしれません。

得体の知れない熱気と凶暴な情熱がみなぎっていた「アモーレス・ペロス」に比べると、何だか「巨匠の佇まい」のようなものが備わってきはじめているようで、良くも悪くも微妙に予想を外されました。
荒削りだけど「アモーレス・ペロス」の方が好きかなぁっていうのが、「バベル」を見た直後の感想だったのですが、少し間を置いてみて、また両方を思い浮かべたりすると、必ずしもそうでもないかなぁと思えるようになって来ました。

2007年06月08日07:27

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