列車を待ちながら(「めぐりあう時間たち」)

家族で出かけるときは妻の運転する車のことが大半で、妻が不在の時だけ電車やバスや徒歩になる。僕は免許を持っていない(パパは“使えない”というのが我が家での評価)。
ずいぶん大きくなったとはいえ、小学生の娘二人と電車やバスで移動するのはそれなりに大変で、ちょっとしたハプニングはしょっちゅう起きる。その度に僕は結構テンパる。思った時間に乗れなかったり、慣れてない場所に行ったりすると、その副産物として、電車やバスを待つ15分から30分くらいの時間が出来たりする。
ちょっと疲れてる娘たちと、汗だくの僕が一息ついて、買い与えたジュースやお菓子を口にしながらボソボソと話をする。
頑張ったね、と褒めたり、大丈夫?、と聞いたり、ごめんね、と謝ったり・・・
そういうエアポケットのような時間を妙に覚えていたりする。偶然の結果として生まれた静かな時間。普段は話さない本音をふと明かしてしまったり。実は僕はそんな時間が結構好きなのだ。

「めぐりあう時間たち」の3人の主人公の一人、ニコール・キッドマン演じる(本当に見事だった)作家ヴァージニア・ウルフが郊外での療養生活に疲れ、家を飛び出してロンドン行きの列車を待っている。それに気がついた夫のレナードは彼女を追って駅までやってくる。ホームのベンチに並んで座る二人、郊外での生活や創作の苦悩をレナードにぶちまけるヴァージニア、それをじっと聞くレナード。
妻の苦悩を改めて知った夫は彼女の望むようにしてあげようと決めて、そして彼女に優しく語りかける。
「分かったよ。でも今日は家に帰ろう。僕はお腹がすいた。」
彼女を支えて、理解して、リスペクトする一人の男性の口からふと溢れた、真実の言葉。

比類なき才能を持つ女性を妻として持つものの気持ちはどんなものなのだろう?
彼が愛したのは彼女自身だったのか、その才能だったのか?
彼が望んだのは彼女の文学の昇華だったのか、二人の幸せな生活だったのか?

大急ぎで駆けつけた駅のベンチで、偶然に生まれた少しの時間。深呼吸をして肩を寄せ合って、その時に語る言葉にこそ真実がある。

その18年後に入水自殺をするヴァージニアがレナードに対して残した手紙
「私の人生の幸せはすべてあなたのおかげだった・・・」
あのベンチのホームで彼が送った言葉と、この返答。これ以上のやり取りはないのではないだろうか。

いつか、成長した娘たちと、何かの偶然で、静かなホームのベンチに座ってゆっくり話をするようなシーンを想像している。何かに悩んだり、迷ったりしている娘が、ふと弱音を吐いたり、愚痴を言ったりする。そんな時に僕はどんな言葉をかけられるだろう。
娘たちは急に大人にはならないし、才能あふれる文学者になるとは限らない。でも彼女たちはいつまでも僕の大切な娘であり、何回も何回も繰り返されたベンチでの対話の先にだけ、その時が訪れる。僕はそういう積み重なる時間こそを大切にしたい。

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