サイダー・ハウス・ルール

文明社会に迷い込んでしまったキングコングの例を出すまでもなく、誰かが誰かを求める気持ちは往々にして既成のルールを越えてしまいます。しかし其処が未開のジャングルならいざ知れず、様々なルールによって社会性を構築した人間の世界である限り、必ずその代償を求められることになります。

「これは俺の作った法律でない。」

娘に自分と同じ名をつけ、自分の子を身ごもらせたミスター・ローズはそう嘯きます。彼の言葉にはひとつの真理があります。そして大事なものが欠けています。

ルールを既成の倫理観と同意の絶対的なものとして捉え、それに盲目的に従うことしか知らない人々にはこの言葉の真理は理解できないでしょう。彼らには「誰がこのルールを作ったのか?」という問い自体が不必要なのです。その問いの如何に関わらす、彼らのとるべき態度は「ルールを守ること」と「ルールを守らせること」だけだから。
ミスター・ローズの言葉にはルールが最初から其処にあったのではなく、また自分自身が積極的に選びとったものでもないという真理が含まれています。

そして彼の言葉に欠けているもの。それは「なぜ?」の問いです。どうしてそのルールがあるのか?たとえそのルールが自分の信念とかけ離れたものであったとしても、自分の信念(ときに動物的な情動)をルールとすりかえて他人に押し付けることはできません。「なぜ?」の問いを発すれば、ルールを支えているのは実は権力でも、多数決でもなく(良くも悪くも)パーソナルな欲求の集合であるという答えに辿り着けるはずです。
意にそぐわないルールを前にして我々に与えられている自由は決して無制限ではなく、ルールを破る贖いを“たった一人で”引き受ける覚悟か、もしくは新しいルールを時間をかけてじっくり育てていくことしかないはずです。
ルールに向かい合うのには相反する二つの態度が必要です。それはどんな既成のルールにもひれ伏さない断固たる決意であり、そうした共通の決意を抱えている孤独な隣人たちの存在を感じ受け容れることのできる寛容さです。自分はたった一人であり、でも「たった一人の自分」は決して一人ではないと思えること。断固たる決意と寛容さ、そのどちらもを支えているのが決して個人的な欲求などではなく「誰かが誰かを愚直なまでに大切に思う気持ち」であって欲しい。ホーマーの真っ直ぐな瞳と、彼を愛し、彼が愛してやまない孤児院の子供たちの微笑を見ると本当にそう思わないではいられませんでした。

彼を出迎える孤児院の人々、意地っ張りな女の子の嬉しそうな笑顔が何よりも一番印象的で、決して安易なドラマではないのに、さわやかな余韻がいつまでも残りました。
00/07/24(月) 23:14

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です