ガッジョ・ディーロ

歌と酒と、そして自由をこよなく愛するロマの民。彼らの愛する自由は僕たちのそれとは全く別のものです。

自由であり続けることは、その一方でガチガチの不自由を自らに強いることでもあるのですが、その事を知っている人、その事に気づくことの出来る人は意外に多くありません。
“いくらかの不自由”と引き換えに”制限された自由”を手に入れた人々は、自分が本当は手に入れることが出来るかもしれない”無制限の自由”を想像することも出来ないから。

ロマの民は、そんな事を知ってか知らずか、それとも彼らにとっての自由は”無制限の自由”以外にないからなのか・・・、どこまでも自由であり続けることを選択し、そして同時に”無制限の不自由”という苦難も引き受けます。

楽しければ楽しいことを、悲しければ悲しいことを、誰かを愛しく思えばその愛を、彼らは生きること全てを歌に託し、歌い踊ります。彼らにとって、歌うことは過去を振り返ることではなく、今を生きることそのものだったのでしょう。
彼らの歌がどんなに素晴らしく、心を打つものだとしても、歌だけを切り取ってそれを反芻したのでは何の意味もない。その事に気がついた青年は彼らの”過去の歌”を葬ります。

よそ者であるステファンがなぜ彼らに暖かく受け容れられたのか?その答えは両者にとっての自由の意味に関係があるのではないでしょうか。

冒頭でステファンは凍てついた大地に立ち止まり、座り込み、そしてやがてくるくると廻り、踊り始めます。

「俺は歩かないぞ!」

ロマの民は流離うことを自らに宿命づけたわけではありません。歩くことも歩かないことも、歌うことも歌わないことも彼らの自由なのです。彼らはどこまでも自由であり続けるのです。
ラストシーン、車を降り、再び大地の上で踊り始める青年。どこまでも自由に自分の人生を生きることを決意した彼と、彼の姿に気がついた娘の微笑みが眩しくて、そこには”本当の自由”と”本当の希望”があると感じられました。
99/03/18(木) 20:49

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